宇宙の終焉と死について
私のかかりつけの医師は、私より一つか二つ年下の方だったが、胃ガンで亡くなった。アト半年の余命を宣告されてから、2年近く診察を続けられ、後継者を選んで、旅立たれた。私がこの医師を畏敬しているのは、余命を告げられながらも診療に従事されたことではナイ。死というのを大袈裟なものと表現されなかったことだ。患者には、自身の疾病については報告され、そういうことですので、と、点滴をしながらの診察の毎日だった。けれども、それ以外には何も変わったことはなかった。職業柄、死には多く付き合ってこられたと思う。悲惨な死を幾度もその目で直に観てこられたに違いない。しかし、人間は死ぬのだから、仕方ねえよなあ、という風情は、その姿が消えてしまうまで同じだった。
私はある時期から死ぬことへの恐れというものがまったくなくなった。死ぬということの恐れは苦しみとか痛みではなく、ある幻想にしか過ぎない。だって死んだことなど経験したことがナイのだから。死ぬと、もう私は二度と永遠にこの世界には生じないだろう。これをヒトは恐れるのかも知れない。ニーチェの永劫回帰など、量子力学以前の思想でアテになるものではナイ。私は私の死というものは、私の宇宙の終わりだと思っている。この宇宙は、私を含めて成立しているのだから、私が死ぬということは、その宇宙もまた終焉することになる。もう私も私の宇宙も無くなる。つまり、全てが無に帰する。そう考えるようになってから、死ぬことは恐れるものではナイと認識している。
ところで、もう一度生まれたいかといわれたら、あるいは、永遠の命を与えてやろうなどといわれたら、それはもう勘弁してもらいたいと思う。従って、私はキリスト教のいう天国での永遠の命などにはまったく興味はナイ。フッと生まれてフッと消える。深沢七郎さんは、おそらく釈迦は菩提樹の下で瞑想の最中に、ふと目を開けたとき、流れ星を観て悟ったのだろうと、どっかで書いてらっしゃった。つまり、ヒトの命など流れ星と同じだと釈迦は微笑んだのだ。微笑んだというのは私の創作だけど。
しかし、そういう死というものは、生きてこそある死でなければならない。生まれたときにすでに死んだも同然、ということだけはなんとしてでもなくさねばならない。生きなければ死はやってこない。生きてもいないのに死ぬのは死とはいわぬ。自身の宇宙を経験していないのに死ぬのは死ではナイ。
私の死は、私の宇宙の終焉だ。私はこの135億年の時空とともに消え去るのだ。そう考えると、つまりは、ヒトの80年も、蜻蛉の7時間も、宇宙の135億年も、何の変わりはナイ。生まれてきて良かったといえるのは、死ねて良かったと思うことと同じことだ。そんなふうに、私はもうすぐ余命と呼ばれるようになる私の残り時間を愛している。
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