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2012年10月

2012年10月28日 (日)

SLOFT/N『ash children(灰の子供たち)』

SLOFT/Nの次ぎの公演は、来年の秋になりそうです。とはいえ、もう戯曲の準備稿は書き上げました。タイトルは挙げたとおり。そこでのラストシーンのせりふになるかも知れないものを、予告編めいて、書いておきます。

聞いてよボクの話を 聞き流してくれたっていいんだ
ボクが神さまを愛さない そのワケを いってみようか
まず 全知全能 完全無欠 そんなものをどうしたら愛せるんだ
そのどこを なにを 愛せばいいんだ
神さまは ボクを愛するくらいなら 生きられずに 命終わるもの
死ぬことさへ出来ぬ あなたの創造物を 愛しなよ
ボクは 神さまは愛せないけど 隣人は愛せるね
ちっぽけなアパートに 家族で住んで ささやかに 生活している
生活しようとしている 生活したいと望んでいる 隣人
週末には 酔っぱらって 廊下やベランダで 嬌声 怒声 騒いでいる 隣人
息をひそめて 世間さまとやらの 迷惑にならぬように 小さくなってる 隣人
そういう隣人を ボクは愛している
愛するとはどういうことか それはね なにもしないことだと思う
なにもしなくとも 互いが生きてイケル そういうことだと思う
だから ボクは隣人になにもしない
隣人がボクに なにもしてくれなくてもイイ
なにもしなくてもイイことほど 大きな愛があるだろうか
なにもしなくとも ボクと隣人が生きていけるまで ボクは
なにかいっぱい やんなきゃイケナイ かも知れない
けれど 神さま を愛することはできない
そんなことに かまけていられるほどヒトはね ヒマじゃナイんだ
貧しきものが幸いで 貧しきものは何一つ持たないものなら
ほんとうの貧しきものは 神さますら 持たないのさ
ボクたちは 灰だ ちりあくた だ
けれど いっとく
ボクたちは 燃えつきて灰になったんじゃナイ
ボクたちの時間は さかさまなんだ
ボクたちは 灰からしだいに エントロピーを減らしていくのさ
だから ボクたちは 灰の子供たち ash childrenなんだ

憐れんではダメだ(改訂)

「自分を憐れむように他者を憐れむ」が仏教の教えなら、キリスト教は「自らを愛すがごとく隣人を愛せ」だ。どっちも、ダメだと思ったほうがイイ。「憐れに思え」「愛せ」などというのは、高慢だと自戒したほうがイイ。ここは「憐れを思え」「愛されるように」が正しい。一見受け身のようだが、相手の憐れを自らにとって返してきて、自らの憐れと重ねるときこそ、ほんとうに相手の憐れを知ることが出来る。
たしかに「憐れ」は、この世、人生、世間に存在するが、ただ憐れで終わっていては、ヒトとして能がナイ。憐れは、生きる強さの前提にしなければならない。逆にいうと、「強さ」の元には常に「憐れ」がなければならず、それゆえ、「憐れ」のナイ「強さ」はほんとうの強さではナイ。単純に自らの「強さ」を他者の「憐れ」の上に置いてはダメなのだ。自分自身の強さは、自分自身の憐れを自覚してこそ成立する。そのときに、初めて、他者の憐れと自身の憐れとは、その「強さ」において遭遇する。彼のひとが、強いのは、自身が強いのは、その憐れがあるからこその強さだと、思わなければ、単なる同情としてしか憐れと強さは現出しない。従って「自らを憐れむ」ことを以て、強さとするのと同じく、他者もまた、自分と同じように強いのだと信頼するべきだ。ひとは弱い、しかし、強いというのは、ひとは憐れだと等価でなければならない。ひとは強くあろうとするが、そのために弱さを自覚してしまい、そこに、憐れがあるのだ。「同病相憐れむ」で終わっては何の価値もナイ。そこから、すべて、生活するというのはそこからだ。

2012年10月20日 (土)

幼女

紫式部の『源氏物語』は通読程度に読んだことがあるが、そのときの感想は、主人公光源氏の女性遍歴の絶え間なさではなく、よくもまあ、恋というものには多くのパターンがあるもんだ、という妙な驚きだった気がする。で、そのことを書くのではなく、「紫の上」は源氏の養女となって、のち、なるようになるのだが、最初に源氏に出逢ったのは10歳のときだ。源氏は、すぐさまそのオカッパ頭の少女(幼女)を愛してしまうのだが、源氏は皇族で、皇族は多婚がふつうだったにしても、いくらなんでも、そのとき(出逢ったとき)にヤッちゃったら、当時はどうだったのか知らないが、いまでは犯罪になる。性犯罪、幼女姦淫、変質者、変態、、、n。成人コミックの町田ひらくは、たいていそのほうを描くのだが、私は町田ひらくのファンだから、成人コミックでもこのひとのマンガだけはたまに買ってた。その頃の友人に町田ひらくを勧めて読ませたら「痛々しい」という感想が返ってきた。マンガ評論家の村上 知彦(チャンネルゼロ)さんとは親しくしていて(このひと、あだ名がギャーさんというんですけどね)、だいぶ前になるが、大阪で顔を合わせたときに「想さんは町田ひらくが好きなんだってね」と、とくにそのアトは何も語らず、面白がってるのか、関心があるのか、なんだかワカラン笑みで、私は何をどういわれたのか、いまだにワカラナイ。
町田ひらくのあるシリーズ(だと思うんだけど)に、幼女(少女)の相手が老人ばっかというのがあって、それは、何かの共同体の儀式で、少女を贄としなければならない、てな内容だったと思う。(この辺、「思う」が多いのは、殆ど資料以外の書籍は実家に置いてきたので確かめようがナイからだ)。人間、いくら齢を重ねても好々爺ばかりになるとは限らない。こういう儀式は別にして、少女(幼女)を姦淫するというのは、現代では、ある人格障害、人格破綻、というビョーキとしてしか扱われない。つまり狂気だ。こういうシステム、シフトに果敢に挑んだのがフーコーだということは、ご存知のことだろうが、フーコーの疑義に倣って、こういう「もし」を命題にしてみる。「もし、あなたをカウンセリング、もしくは治療にあたっている精神科医が狂っていたら」だ。フロイトの功績は無意識の発見だということに異論はナイが、精神分析の方法は、ある精神医学を基準にした対応型のシステムからはみ出していない。では、この医師は患者をどうしたら、治療完了となるのだろうか。このようなシステムは、卑近な日常にも数多みられる。「常識」「正常」から逸脱したかのような者に対して行われる、教育や説教の数々だ。フーコーは「知」とは「権力」のことだと喝破したが、もう少し丁寧にいうと、知は力なり、かな。フーコーはあるインタビューに「私は抗うことの出来ない快楽の中で死にたい」と答えている。そりゃいいな。快楽主義者といわれたエピクロスの快楽は、貧弱で節操のない快楽ではナイ。疲弊、脆弱を生じさせるものではナイ。しかし、現代の知は、道徳の衣を纏いながら、その権力を世間にまで流布させている。私どものような物書きは、元来、反社会的な存在なのに、テレビにコメンテーターとして登場するなど、笑止、いやこれこそ狂気の沙汰じゃないのか。チェスタートンの『正統とは何か』はその作法であるパラドクスとしていうならば、非常識だからこそ、常識や正常の危険さを一刀両断に斬り棄てているのではないか。そうすると『源氏物語』の面白さは、まさにしみじみと狂っている主人公、光源氏の非常識な所業あるところにしかナイ。

2012年10月19日 (金)

私が脳死に反対する理由

私は臓器移植という医療に反対するものではナイ。角膜移植を含め、生体腎移植、肝移植にはむしろ、それでイイと思っている。ただ、脳死臓器移植には、賛成しかねる。その理由は単純なもので、私は脳死をヒトの死というふうに認めていないからだ。脳の欠損で、ヒトは植物人間とかいうふうに呼ばれることがある。喋れない、みえない、だ。しかし、聴力は違う。聴力は感覚系統で最後まで生きている。よくいわれる幽体離脱という体験はこの聴力の他感覚カバーからきているとみてほぼ間違いない。聴力は、演劇の場合、演技において視力よりも大きな力を持っている。何故なら、せりふは聴力のたまものだし、空間把握は、視力とともに、聴力に依るところが大きい。時間把握は聴力だ。視力がデジタルなのに対して、聴力はアナログ的に空間と時間を把握していく。これら感覚機能は、意識と呼ばれるものに結びつく。もし、脳死がヒトの死であるならば、意識というものが死んでいなくてはならない。意識が死ぬということがあるならば、意識は脳内の何らかの物質としか考えられないことになる。つまり、脳のある部分が死ぬと意識がなくなるのならば、意識とはその部分という物質になる。物質であるならば、外部に取り出せることになる。意識を脳の外に取り出せるものかどうかは、医学の問題ではなく、もはや常識的な問題だ。そんなことは不可能だ。そうすると、脳死と意識とはある関係を持ってはいるが、直截なものではナイ。だから、たとえ脳死であっても、意識は残っているということは充分ありうる。具体的にいえば、脳死の状態でも聴覚は生きていて、そのぶんの意識は生きているということになる。何を脳死とするかは、脳波などの判定でなされるだろうが、私は聴力の判定をすべきだとさへ思っている。聴力ほど不思議なものはナイ。耳鳴りで悩んで聴力神経を切断したひとに、耳鳴りだけが残ったという話は存在する。聴力は視力と同様に、聴くことによって、像をイマージュすることが出来る。視力が実体を観て、それを変容させて像にするならば、聴力は実体を観なくとも、像を創り出す。あのアホ映画は、それすらアヤシイものに描いてしまったが(単なるロマンのようにしてしまったが)、意識は聴力に残るのだ。意識が残る以上、脳死などというご都合的な医療の犠牲にはなりたくはナイ。静かに自分か死んでいく事態を聴力による意識によって感じながら死んでいくのは、臨終の者の権利だろう。

映画感想『悪の教典』(三池祟史・監督)

サイコ・キラー映画としては上質のエンターティンメントです。子供たちが殺戮されることに生理的嫌悪を抱く観客もあるでしょうが、そういうひとは、観ないこと。私はこのドラマツルギー(劇世界)に感情同化して、二十年若かったら伊藤英明が演じたチャーミングなサイコパスを演じてみたいと思いましたワ。彼に同化したワケではありません。純粋に役者としての演じ甲斐ですね。とはいえ、不満がナイとはいえません。サイコパス(人格障害者)が人殺しをする。つまり殺人鬼(殺人狂)が殺人をするというのは、いってみれば「キチガイに刃物」で、アタリマエのことですから、常人が突然人殺しを始める異常さはありません。カミュの『異邦人』のように太陽が眩しかったからひとを殺した、という不条理でもありません。たとえば、ヒッチコックの名作『サイコ』と『鳥』。ヒッチコックスリラーの中でもベストの評判の作品ですが、私はあまり『サイコ』はイイとは思っていない。何故なら、殺人に理由があるからです。ところが、『鳥』は突然、理由もなく鳥がひとを襲う。それについての説明は一切ナイ。こっちのほうが恐ろしい。ヒッチコックにはその両方の作品があって、心理がどうだのこうだのというほうは、私はあまり好きではありません。それなら、上映時間のあいだ、ヒヤヒヤさせられ続ける、ヒッチコック・サスペンスのほうが好きです。この映画を評価出来るもう一つは、子供たちの演技です。チラッとだけのいわゆるちょい役も、きちんと演技している。しかも、いわゆる、お芝居ではナイ。ここは三池監督の演技指導の大成功でしょう。深作監督の『バトル・ロワイアル』にはまだ及ばないとして(あっちは出来が良すぎる)、多作の三池監督作品としては代表作になるんじゃないでしょうか。東宝さんも、昨日のアホ映画の汚名を濯いだというところであります。R15+指定なんですが、14歳なら観てもイイと思いますね。

悲しき○

昨日はアホ映画をボロクソに書いたが、私は「悲しさ」のナイ映画はのきなみ好きではナイ。それ以上に悲しみを作った映画は大嫌いだ。まあ、繰り返しすのはよすことにして、さて、若い劇作家、あるいは老練なものも含めて、劇作というのは「想像力」がものをいうと勘違いしている。これは錯誤でしかナイ。想像力が最もさかんな若者の書くものは大目にみることも出来るが、それは大目にみているだけで、やはり錯誤は錯誤、誤解は誤解でしかナイ。
およそ劇作というものは「想像力」などアテにしてはならない。アテにするのは「観察力」というもので、これはいくらでも鍛えることが出来る。観察力は「選択眼」につながっていく力だ。選択眼というのは、さまざまなものから何か一つを選びとることだから、他の多くは捨象される。つまり、何を選ぶかが観察力というものだと、論理的にはそうなる。画家の岡倉天心(だったと思うが)は食えない、つまり売れないとき、「売れるような絵ならいまでもいくらでも描けるが、目先の銭に拘ると一生食えなくなる」と、頑固に自身の信条を通した。何が自身の描くべきものかを選択していたのだ。同じ画家のピカソも、スケッチブック数冊に○だけを描いている(これはブログで何度も書いた)。一つ○を描く。それを観察する。選択する。その○が、彼の絵の何処に反映されたのかは素人はいうまでもなく、鑑定家にさへワカラナイ。
「悲しさ」を観察力でみぬき、そこからある悲しさを選択するのは難しいことだ。だから器用な物書き、劇作家たち、シナリオライターたちは、一般的、普遍的に悲しいものを書く。主人公のどちらかが不治の病ものや、不幸を書けば、悲しさを書いたことになる。最近の観客はレベルが低下しているから、これは悲しい演劇、映画なんだから悲しいんだろうと、悲しみの実体ではなく、作り物でよしとする。また、そのほうがいまの世間を生きるには楽なのだ。繰り返さないとしたが、繰り返してしまうが、昨日のアホ映画でも、どうだ悲しいだろう調で、ラストシーンではヒロインが泣く。ほんとは泣いたらアカン。悲しさというものは、あそこで、ヒロインがどう悲しみを堪えるか、でしか湧いてこないものだ。最近の女優は、演技で泣けることが、何か演技の実力だとでもいうふうに勘違いなさっている。ヒトはほんとうに悲しいときは泣かないものだ。理由は二つある。先述のようにそれを堪える。耐える。というもの。もう一つは悲しみのあまりの深さに涙すら出ないというもの。かつてのテレビドラマの名作に『泣いてたまるか』(渥美清さん主演)てのがあった、主題歌はたしか、♪空が泣いたら 雨になる 山が泣くときゃ 水が出る 俺が泣いても なんにも出ない 意地が涙を 泣いて 泣いてたまるかヨ 通せんぼ
だったと思う。
私が、役者をみるとき、やはり観察力と選択眼というもので「悲しさ」を観ることを尺度にしている。悲しさを持たない役者はダメだ(まったくの若い新人さんは別として)。このひとの悲しさは奈辺にあるのだろう。それが、その役者の裏っかわにみえるとき、私は少しほっとする。

2012年10月18日 (木)

映画感想『終の信託』(周防正行・監督)

こういう映画をよく銭とってみせる気になるねえ。東宝の看板が泣くぜ。今回はボロクソにいわせてもらう。まず、この日本を代表する(と、チラシにあった)周防は、シナリオの書き方を一から勉強しなさい。私は試写室で、何度も笑いそうになった。ひょっとしてこれは喜劇なのか。それならまあ二流程度には出来てる。最初の10秒で、この映画、アカンという気がしたが、最初のカットが創りすぎだったからだ。で、すぐに草刈民代の濡れ場になる。自分の嫁のベッドシーンをみせて、「僕もこんなふうにやってるよ、羨ましいだろ」みたいな、こういうシーンはカットすればよろしい。カットといえば、この映画、上映時間がなんとまあ、二時間24分。これね、45分でまとめられます。つまりテレビドラマの尺でです。草刈民代は賞味期限がすぎて、消費期限がきている。アダルトに行きなさい。それなら話題性だけは残っている。しかし、私は、こんな女のモザイクかかったおまんこなんか観たくナイけど。日本映画の全監督、映画関係者は怒り心頭でイイ。こんな、プロが創った作品とはいえないシロモノを映画だといいやがって、何が日本を代表するですか。日本映画の恥です。汚点です。屈辱です。糞です。吐瀉物(ゲロ)です。
医療もの、ほう、医者(研修医でも)が観たら、まあ、映画だからな、とバカにされますわ。検事もの。ラスト45分の長丁場の草刈と大沢たかおの検事室のシーンは、検事が観たら、いや警察もの、ミステリを書いてる作家が観たら、大喜びしますね。なんだ、こんなものでも銭とれるのか、と。役所広司さんは、ピンキリで映画出るからなあ。しかし、今回だけは、シナリオをほんとに読んだのか、疑いました。周防には「終の神託」を下したほうがよろしいでしょう。銭も払わず、ボロクソにいいましたが、私はストレスで、咳き込みと微熱まで出したんだから、そんでええやろ。

宇宙の終焉と死について

私のかかりつけの医師は、私より一つか二つ年下の方だったが、胃ガンで亡くなった。アト半年の余命を宣告されてから、2年近く診察を続けられ、後継者を選んで、旅立たれた。私がこの医師を畏敬しているのは、余命を告げられながらも診療に従事されたことではナイ。死というのを大袈裟なものと表現されなかったことだ。患者には、自身の疾病については報告され、そういうことですので、と、点滴をしながらの診察の毎日だった。けれども、それ以外には何も変わったことはなかった。職業柄、死には多く付き合ってこられたと思う。悲惨な死を幾度もその目で直に観てこられたに違いない。しかし、人間は死ぬのだから、仕方ねえよなあ、という風情は、その姿が消えてしまうまで同じだった。
私はある時期から死ぬことへの恐れというものがまったくなくなった。死ぬということの恐れは苦しみとか痛みではなく、ある幻想にしか過ぎない。だって死んだことなど経験したことがナイのだから。死ぬと、もう私は二度と永遠にこの世界には生じないだろう。これをヒトは恐れるのかも知れない。ニーチェの永劫回帰など、量子力学以前の思想でアテになるものではナイ。私は私の死というものは、私の宇宙の終わりだと思っている。この宇宙は、私を含めて成立しているのだから、私が死ぬということは、その宇宙もまた終焉することになる。もう私も私の宇宙も無くなる。つまり、全てが無に帰する。そう考えるようになってから、死ぬことは恐れるものではナイと認識している。
ところで、もう一度生まれたいかといわれたら、あるいは、永遠の命を与えてやろうなどといわれたら、それはもう勘弁してもらいたいと思う。従って、私はキリスト教のいう天国での永遠の命などにはまったく興味はナイ。フッと生まれてフッと消える。深沢七郎さんは、おそらく釈迦は菩提樹の下で瞑想の最中に、ふと目を開けたとき、流れ星を観て悟ったのだろうと、どっかで書いてらっしゃった。つまり、ヒトの命など流れ星と同じだと釈迦は微笑んだのだ。微笑んだというのは私の創作だけど。
しかし、そういう死というものは、生きてこそある死でなければならない。生まれたときにすでに死んだも同然、ということだけはなんとしてでもなくさねばならない。生きなければ死はやってこない。生きてもいないのに死ぬのは死とはいわぬ。自身の宇宙を経験していないのに死ぬのは死ではナイ。
私の死は、私の宇宙の終焉だ。私はこの135億年の時空とともに消え去るのだ。そう考えると、つまりは、ヒトの80年も、蜻蛉の7時間も、宇宙の135億年も、何の変わりはナイ。生まれてきて良かったといえるのは、死ねて良かったと思うことと同じことだ。そんなふうに、私はもうすぐ余命と呼ばれるようになる私の残り時間を愛している。

2012年10月17日 (水)

待機説法

釈迦の説法(教え、仏教の説き方)は待機説法といわれる。いうなれば、man-to-manの方法だ。大講堂に信者を集めて講壇に立ち、大風呂敷をひろげる、いわゆるいまのさまざまな新興宗教集団の方法とはまるで違う。待機説法の強みは、ひとりひとりそれぞれの悩みに適したコトバで応えていくことだが、弱みは、「私とあんたとでは聞いたこと違う」ということになりかねない。仏教の経典が幾千とあるのはそのせいなのだが。これに対してイエスの場合は、辻説法になる。少人数を相手に、ちょうどテキ屋のように語る。しかし、これもまた、場所と時間で、「聞いたことが違う」ということは起こりうる。聖書の矛盾についてハリイ・ケメルマン(『九マイルは遠すぎる』のミステリで知られる、ユダヤ教の大学教授にして、作家)は、「聖書の内容に矛盾が多くみられるのは、イエスの説法が当時の方法論であった、辻説法の寄せ集めだからだ」と、けっこうシビアに述べている。しかし、チェスタートン(『ブラウン神父』シリーズの作家にしてカトリック教徒)は、聖書の矛盾については、「聖書に矛盾がみつかるとき、必ず、それに呼応するようにこの人間社会にも矛盾がみつかる」と、聖書と人間社会の対応を、その答えにしている。みかけでいえば、ヒトは、独りでいたり、1対1でいたり、大勢多数の中にいたりする。独りでいるときも、まったくそのココロが自分だけに向かっているときもあるし、環境に対応しているときもあるし、また、そのカラダに向き合っていたりしている。さらに、ヘーゲル的にいえば、独りでいるときも、独りでいる自分と関係している独りの自分が出現することになる。たとえば、何かに悔やんでいるとき、そういうふうに悔やんでいる自分に悔やんでしまうことが多いのだ。もちろんこれは連鎖するし、それを弁証法では精神(観念の)運動として捉える。この運動は観念論であろうと唯物論であろうと違わない。唯物論は観念を認めないかのように誤解しているひともいるが、唯物論は人間の観念(精神)運動を重視している。
さて、たとえば、大講堂に集まった信者に対して、演壇の教祖が「みなさん、アルコール依存は治ります。酒を飲まなければ、必ずっ」と声高にいって机を拳で叩いたとする。まあ、それに異存のあるものはナイ。アタリマエのことだから。しかし死刑囚に「健康のために毎日15分ほど散歩すること」という一日の時間割が刑務所で組まれているとする。なるほど、毎日15分のwalkingは健康上、よろしい。死刑囚は死刑になるまでは健康でなければいけない。私たちは生まれてきた以上、死ぬことの宣告を受けているのだから、アルコール依存で酒をやめず、飲み続けて肝臓をやられても死ぬし、たとえ一日15分のwalkingをしたとて、死刑から逃れられるということはナイ。従って、どんな待機説法、辻説法であろうと、つまるところは、ヒトの死を前提としている。ヒトの平均寿命は伸びたが、それは新生児の死ぬ確率の減少にしか過ぎず、健康寿命は意識的に維持しなくてはならない。私も常人同様、健康には気を使っているが、それは長生きするためではない。やるべきことをやり終えるまでは、ある程度の健康が必要だからだ。やるべきことが終わったら、惚れた女の膝枕で、明るい陽ざしと涼しい風に吹かれながら、出来れば縁側で眠るように死にたい。若い者はゲヘヘと笑うかも知れないが、こういうことは六十歳くらいにならないと、ワカランことだ。

2012年10月14日 (日)

中医学

私たちは「東洋医学」というコトバや「漢方医学」というコトバを耳にするが、中医学というのは、中国の歴史的な医学をいう。たとえば、東洋医学であれば、インドやチベットの医学も含まれてしまう。漢方医学は、漢方薬による処方医療とでも認識しておけばイイだろう。
ところで、五年ばかり前から右肩の痛みに悩まされていたのだが、神経科クリニックのドクターのお勧めで、ある鍼灸院を紹介された。当初は、単なる鍼治療かと思っていたのだが、ホームページをみるに、どうもそうではなさそうで、初診には90分ほどの問診を要するとある。いまどき、90分も問診する医者はいない。というか、臨床医学の発展で、原理医学である問診治療をしない医者までいる。つまりデータだけで、患者の病気を診て疾病を決めてしまうという、あの藪医者、医者オタクの医者の類だ。私はストレスを感じると咳き込むので、ともかく一応診てもらっとくかと、とある医者を訪れたことがある。で、まあ、案の定、レントゲンを撮られたのだが、驚いたことに、遮蔽室ではナイ、剥き出しのX線装置の前に立たされて、遠く離れて看護師がこっちをみているのだ。大丈夫かいなと思いつつ、医師の診断によると「レントゲンに異常はナイが肺ガンかも知れないのてCTを撮りに大病院まで行け」という。「異常がナイのにCTスキャンする根拠は」と訊ねると「ガンはレントゲンには映らないことがある」という。もう、論理的にムチャクチャだ。それなら最初からCTにすればそれで済んだのに。CTにも異常はなかったが、クスリをだすという。何のクスリかと訊ねると抗生物質だという。この医者は、完全にオカシイのだ。次ぎに呼吸器科の専門医を受診した。アレルギー検査をするという。で、結果、全てのアレルギーはマイナスで、アレルギーではナイという結果が出た。そこでその医師が私にいうには「これはアレルギーではナイ喘息です」。かくなる喘息というのはでは、何なのかの説明はナイ。つまり本態性高血圧と同じで、原因がワカラナイ喘息だということだ。
さて、そのドクターお勧めの治療院で、確かに90分ばかりの問診があり、それから脈診と触診があって、舌の写真を表裏、撮影された。そのアト、鍼治療に入るのだが、鍼は肩ではなく、足の小指の付け根あたりに一本うたれただけで、5分ばかりそのまま。5分で脱鍼して、10分休憩。それからまた舌の写真。つまり治療前、後の舌の色の変わり方をそれからみせられたのだか、治療前(鍼をうつ前)は舌の表は青味を帯びた灰色で、裏側は、どす黒い紫色だ。ところが、治療後は表も裏もピンク色になっている。中医学の医師はいう「これは気と血の循環が原因ですから根本治療をすれば治ります」。私は魔法のような舌の写真をみつめながら、軽くなった肩の変化にも驚いた。もちろん、一発で治るということはなく週一回の治療が必要らしいし、肩の痛みも、翌日にはもどっていたが、しかし、中医学、畏るべし。いつぞや、私は「科学哲学」たらいうインチキくさい本で、「似非科学としての鍼治療」というのを読んだことがあるが、鍼灸にもさまざまな流派と方法があるのだが、その「科学哲学」者はそれを学んだことも、研鑽したこともナイように思えた。単純にただ、鍼をうつ治療だけを似非科学として批評していただけだ。もしかすると、中医学の理念(人体を自然の一部として観る)に鬱病に対するヒントがあるやも知れない。

2012年10月12日 (金)

シンメトリー

極東退屈道場の『タイムズ』(林慎一郎・作、演出・於アイホール)については、兄弟弟子の中村賢司が自身のブログでたいていのことは批評しつくしている。私は終演後、急いで翌日の盟友の命日墓参に間に合わすため、東京に発ったが、林には二、三述べておいた。「シンメトリーの舞台というのは扱いが難しいのだ」何故なら、シンメトリーは遠近法となり、それは消失点をおのずとつくってしまう。『タイムズ』の失敗の一つは、この舞台を持ったことによる。つまり、役者、せりふ、劇、は、この消失点に求心されて舞台から前に出てこられない。「もし、再演するならキュビスムにしたほうがイイ」と、アドバイスしたが、林自身、戯曲を書いている時点では、キュビスムを意識していたのが、演出途上において、シンメトリーの舞台に疎外されてどうしても演出がうまくいかず、苦悶したらしい。あの演目はキュビスムの舞台でやるべきだった。振り付けの原さんも、今回はダンスではなく、フォルムだったが、これも、キュビスムにすることによって息を吹き返すと思う。失敗は成功の母。離婚しないと新しい結婚は出来ない。私がバツ2で学んだのはそれだけ。如何に未練ある舞台でも(衣装も音楽も)、伐るべきはキレ。で、先に、どんどん先に進め、林慎一郎。

2012年10月 9日 (火)

黒蜥蜴いや光と影

『文学賞の光と影』(小谷野敦・青土社)なんてのを読んでいると、小説なんざ書きたくなくなってくるナ。豊﨑由美さんの『文学賞メッタ斬り』を読んだときは爽快感があったけど、小谷野さんのはともかく重箱の隅をつつくような陰湿さで、しかしそこがオモシロイところなんだけど。私の肩書欄には(劇作家・小説家・エッセースト)とあって、演出家は入っていない。もちろん、演出家ではナイからだ。自作戯曲の演出をするからといって、演出で食ってるワケではナイ。ところで、戯曲やエッセーを暇つぶしに書くということは全くナイが、小説は暇つぶしに書いている。書くことが好き(というより快楽)だからだ。まあ、小説などどこの出版社も買ってくれないし、注文もないし、スパイ小説からミステリまで、書き上げたら、棚の上。
だいたい、文学(小説)なんてのは、暗いからなあ。どういうワケか、暇つぶしに書いていても、通俗以外は暗くなる。小説を読まないのも、暗いからで、つまるところ人間関係というのは暗いのだという証明のようなものばかりで、そんなものは、ふつうに生きていてもワカルことで、表向きは光だが、光があれば影が出来る。で、ヒトはどういうワケかこの光のほうに立っているのを[虚構]に扱い、影のほうが自身のほんとうの姿だと思うようになっている。私は、どっちでもイイと思う。というより、どっちだってそのヒトであるのには変わりない。チェーホフの本業は医者だったから「風邪をひくだけで世界観など変わる」という名言を残しているが、ヒトの気持ちなど3分もあれば変わる。私の発明した「アカルイ虚無」というのは、たぶん、そんなことと関係がある。(発明したコトバといえば、「私戯曲」というのを、こないだ、かなり若い劇作家が、まるで自分の戯曲作法のように語っていたが、おい、そりゃあ、私が、15年は前にやったこったぜ。私小説があるように私戯曲があってもイイと、あの頃、インタビューに答えている)。暗くなったってイイ。太宰は『右大臣実朝』で、暗いうちに滅びはナイ、平家はアカルイ、アカルサは滅びの兆しだ。と、述べているんだから。だからただ、アカルイだけではダメだと思って「虚無」を足した。「虚無」も忌み嫌われるコトバではナイ。数学には「虚数」もあれば「無限」もある。市川雷蔵の眠狂四郎がイイのは彼の姿勢が虚無だからだ。「虚数」の場合、複素数平面においてマイナス×マイナス=マイナスで、なんだか心許ない気がするが、その数は確かな線上に存在する。存在はするのだ。これを贈与交換に置き換えると、贈与するのは自分から何かマイナスすることだが、相手方もその贈与に対して、贈与を返す、つまりマイナスすることになる。で、結果がマイナスなら、えらく損な気がするが、どちらも何かを失うということで、結びつくというのは、この間違った資本主義経済の社会において、重要なことだ。なぜなら、現行資本主義は、ともかく増やそう奪おうだからだ。尖閣諸島だって竹島だって、どっちも「失う」ことで決着つけていいんじゃないの。つまり、どっちのものでもナイことにしましょう、だ。仕事でも生活でも、ミスしたり衝突したり、そういう場合に、どっちのせいでもナイことにしましょう、でいいんじゃないのか。「あんたのせいよ」「わたしのせいね」が、イチバン、あかん。何かを失うということは、新しく何かに向かっていく希望につながる。先だっての地震がそうだったじゃないか。おそらく希望というものは、何かを失って初めてそれを得る方法が模索出来るものだと思う。

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