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2012年8月21日 (火)

台詞から科白へ

昨日から、伊丹アイホール自主企画公演『この恋やあきらめるべきさくらんぼ』の稽古に入っているが、まず、読み合わせだ。読み合わせは本読みではナイ。というより、昨今は読み合わせのことを本読みという手合いが多いだけのことだ。克明にいうなら、「本読み」とは、作者自らが、作品を出演者の前で朗読して聞かせることだが、こんなことはいまはどこもやんない。やんないので、「台本を読む」から「本読み」という安直な愚解が罷り通っているだけだ。これは二重の意味で間違っている。演劇界(人)は恥ずかしく思ったほうがイイ。どっちだってやることは一緒なんだからいいじゃないか、という鈍感なる輩もあるかも知れないが、やることはまったく違う。
さてと、私は演出家ではナイから、演出家がどのようにその「本読み」とやらをやるのかは知らない。ただ、私は「読み合わせ」をするだけだ。「読み合わせ」は読みを合わせるのだから、ただ、ホンを読むのではナイ。書かれた劇としての戯曲は、すでに成立して役者の前にある。これを、他の役者の音声と合わせながら読むから読み合わせという。この場合のせりふは「台詞」であって、書かれたコトバを意味する。ところが、書かれたコトバである台詞が、生身の役者の音声を通過して、かつ、他の役者と、その読み方のニュアンスを合わせると、どうしても、このせりふはなくてもイイというものが出てくる。逆に、もう一つ入れたほうが、ということも在り得る。そういうことをするのを「台本化」というのだが、つまりここで、初めて戯曲は台本と称されるのだが、このときのせりふは台詞ではなく「科白」となる。つまり、身体性を帯びる。身体性といっても大きな動きではナイ。役者の呼吸音や、間のとり方、減リ張リのつけ方だ。そこで、相手の科白を受けるとき、つまり合わせるときの受け太刀が問題になる。これが「読み合わせ」と称されるものだ。世にワークショップとやらで、素人衆を誑かしている、半可通の演劇屋はこのさい、覚えておいて損はナイぞ。
戯曲は台本化され、いくつかのコトバはカットされ、いくつか新しいコトバが付加されることになる。ときどき、私の作品の上演の著作権の許諾を求めるさいに、たとえば高校演劇などのさいには、60分しか時間がナイので、カットしていいかという相談がくる。好きなようにして下さい、以外、答えたことはない。ついこのあいだ、ベケットの『ゴドーを待ちながら』を1時間に短縮してやろうという某演劇関係団体の企画に、ベケットの取り巻きだか、信者だか、ベケットを守る会だか、なんでもいいけど、作品(戯曲)の翻案、編集は許可しないというお達しがあって、「はい」と二つ返事で、この企画は直前にお流れになった。いわゆるドタキャンというあれだ。ドタキャンなんてのは、たいていえらいひとがする。これが、日本の作家のものなら、「そういわずに」とかなんとかあったろうにな。ベケットだろうが、ベンケットのたーやんだろうが、どうも日本人は、そういう権威に弱すぎる。だいたい、表現、芸術に「権威」などあろうはずがナイ。そんなものは、オークションのときの市場価格においての値打ちでしかナイ。イヨネスコなどといわれると、途端に条件反射で椅子を並べ始める発作に襲われるようなものだ。ブレヒトの『三文オペラ』にしても、やっぱり「三文」じゃないか。四文くらいの商業演劇だって存在する。
まあ、こういうことは、私が演出家ではないからいえることなので、本職の演出家になれば、ちょっとは遠慮するんだろう。私などは、「食うために」書いている劇作家なので、こと演出になると、やってることは子供の視線になるだけだ。「あのひと、だあ~れ」「あのひとはなにをするひと」、この二つが科白からワカルようになれば、それでヨシ。

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