初期設定の混沌(chaos)⑤
話を弁証法にもどしてみる。いったい弁証法においての、初期設定はどう決めるのだろうか。つまり、どこを「はじまり」とするのだろうかだ。ヘーゲルが「絶対精神」を究極点に掲げたように、マルクスも「革命の成就」を究極点に挙げざるを得なかった。では、その出発点(初期設定)は何処に在る。カール・ポパーの(私からみれば)怪しげな科学、「反証法」など持ち出さなくとも、いわゆる通俗的な「歴史主義」には疑問符を投げかけることは可能だ。例えば、囲碁における3~5手あたりは布石と称される。日常のコトバにも出てくる「~~が布石となった」というあれだ。この布石は棋士においてはおおまかな一局の作戦の初期設定に該る。しかし、勝負は相手が在る。つまり、外から加わる力が予め存在するのだ。そこで、棋士は途中から、作戦の変更を余儀なくされる場合が多い。ともかく半目(一目の半分、勝ち負けを決めるために設けられたもの)でも勝ちは勝ちだからだ。勝負は、たったの一手で決まることもある。このとき、初期設定(布石)はすでに否定されているか、変更されている。ここで、唐突だが、加藤陽子さんの『それでも日本人は「戦争」を選んだ」(朝日出版社)から一節。「一つの事件は全く関係のないように見える他の事件に影響を与え、教訓をもたらすものなのです」。これは、なぜロシア国民がレーニンの後継者として、有能なトロツキーではなく無能なスターリンを選んだのかという部分に記されているコトバだ。スターリンは、まるで戦争の犠牲者の数なみの多い程の粛清者を出している。ポパーの親類縁者も犠牲者だというから、ポパーが通俗「歴史主義」を呪詛して、弁証法にantiの立場をとるのも無理はナイ。しかし、これは、レーニンにおける初期設定のスターリンの変換ではなかったか。ここで、さらに初期設定を変更して、仮にスターリンが、あるいは、あのアウシュビッツの惨殺を歴史に残したナチス・ヒトラーの過去が変わるとしても、時間の矢は正しく平穏な未来を約束するかといえば、けしてそうではナイ。私は初期設定の変更はたやすく出来ると説いたが、それは単にそれだけの話でしかないことはいうまでもナイ。
この初期設定の変更について、私にそれを書かせた動機は二つある。一つは、戯曲を書くということにおいて、「出発、書き始め(つまり初期設定)は、さほど悩むことではナイ」ということを、私塾の、上級クラスで講義する準備のためだ。もう一つは、まったくプライベートなことで、これは単体ではナイ。「あのとき、もし」という苦悩と、「なぜ、あのひとはいま」という難問と、ある不可避の事態に対して、どうしても、「関係の偶然性」という概念を持ち込みたかったのだ。「関係の絶対性」と「成り行きの不可避性」を一緒にしてしまえば、「関係の偶然性」になる。これはある種のオッカムの剃刀だ。私のプライベートなことは、感情や感傷でどうなるものではナイ。もし、思想が私に少しでも在るのなら、それによって乗りこえていかねばならない刑罰でしかナイ。この刑罰に減刑はナイが、他の誰のものでもナイ、私だけのものだという「引き受ける」自負と反抗と意地だけがある。たとえ私個人の固有の争闘だとしても、その闘いがコヒーレントなものとなり、この特殊性から普遍的な、あらたな初期設定が生まれることをせつに願う。ひとは秩序を求めて、混沌に陥る。しかし、ほんとうに求めているのは秩序(cosmos)なのだ。
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