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2012年8月18日 (土)

初期設定の混沌(chaos)①

理論物理学における、さまざまな命名の中でも有名な「ラプラスの悪魔」は、何処か弁証法に似ている。どちらも初期設定(初期条件)が必要になるところがだ。そこんとこから考えると、この理論物理学と哲学は似ていても不思議ではナイ。この宇宙が、機械論的に(ニュートン力学的に)動いて生成していくものだとすれば、初期設定を済ませてしまえば、未来は自然に決定する。というのが、ラプラスのいいぶんだ。つまり、「ラプラスの悪魔」はニュートン力学とアリストテレス哲学の産んだ決定論ということになる。アリストテレス哲学に準じていえば、宇宙を造るには宇宙を造るのに適したものが在りさえすればイイ。ニュートンは運動力学の天才だったが、哲学的にはアリストテレスを融合、というか支柱にしているスコラ哲学(キリスト教神学)から一歩も進んでいない。つまり、如何にして物は動くかを、彼はもののみごとに解いてみせたが、では何故、その物がそこにそんなふうに在ったのかに関しては、未知のまま、というよりも、アリストテレス哲学を擁するスコラ哲学から解き放たれることはなかった。これは、ニーチェ哲学の思想、永劫回帰にも少なからず影響を与えている。ニーチェの永劫回帰説は、同じ宇宙の物質運動の繰り返しに依っている。同じ物が、同じ空間にあって運動と作用を繰り返しているなら、時間さへ永劫に与えれば、何度でも「自分は回帰する」というものだ。これもまた、アリストテレスの鎖を引きずっている。ギリシャ哲学において、プラトン以前のひと、デモクリトスは、初めて物質が原子で構成されていることを説き、その粒子は、上下に直行して落ちていくとした。なぜなら、デモクリトスは「偶然の所産」というものを、いっさい認めなかったからだ。直行しなければ、「いつかどこかで(つまり偶然に)粒子は触れ合ってしまう」。これに対してエピクロスはデモクリトスに影響されながらも、落ちていく粒子が傾斜していることを述べた(粒子は波動でもあるのだが、ここでは、当時の考えのまま粒子としておく)。つまり「偶然」の導入だ。粒子が何処かでぶつかるかも知れないということだ。当然、そのために異端とされた。スコラ哲学(キリスト教神学)は粒子の傾斜など認めなかったからだ。しかし、マルクスは、卒業論文で、エピクロスのほうを正しいと選択した。粒子のぶつかり合いによる新しい発展をみたのだ。マルクスの自然弁証法の誕生はここにある。しかし、ヘーゲル弁証法に対しての自然物質の哲学を弁証法として展開はしたが、マルクスは、あくまで粒子の傾斜による「発展」を重視したのであって、「偶然」を注視したワケではナイ。いま、このエピクロスの粒子の傾斜は量子力学においては「量子のゆらぎ」として扱う。また、その影響をコヒーレンス(自己組織化)という。コヒーレントとの違いは、elegance(名詞)とelegant(形容動詞)と同じだと思っておけばイイ。ヘーゲルとカントという二大ドイツ観念論の相違は、カントが対象と主体から対象の概念(category)を求めたのに対して、ヘーゲルは、対象を捉えている主体を対象としたところから始めた。つまり、カントにおける、ついに主体の掴みきれない問題のシロモノ「物自体」という難物にそれなりの解答を提出したのだ。ここに、ヘーゲル弁証法独特の「運動」という概念が在る。ところで、最初に指摘したように、この「運動」は、「ラプラスの悪魔」と同じで、決定論的だ。正-反→合(正)-反→合(正)は、未来に対して寸分の狂いもなく動かなくてはならない。寸分の狂いも、初期設定(初期条件)に予め想定されたものだ。この考え方はデモクリトスの原子論にも似ている。「偶然」が入り込めないからだ。かくしてヘーゲルのそれは「絶対精神」という未来に到達する。これは、無限に到達するのと同じだが、無限には到達するワケがナイので、ニュートンの「極限」という理念と同等だと考えてイイ。無限にはいきつかないが、その方法はワカッテいるというあれだ。何れにせよ、ヘーゲルの弁証法は決定論のスキーム(枠組み)にある。

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