無料ブログはココログ

« food terraceの大衆 | トップページ | で、こんどは »

2012年7月11日 (水)

いくつかの発想

蕁麻疹がやや治まってきたら(クスリで抑えているだけけなのだが)、痛風ときた。ビールはおろかアルコールはまったく口にしていないから、ストレスで出るものは出るといったところだ。ステロイドに加えて、昨日からコルヒチンだ。私の場合、カラダが正直に反応するので、ストレスは全部、症状として出る。今回の蕁麻疹、痛風、それからいつもは咳き込みに不整脈。さて、そういうのは、もうしょうがない。一休禅師のいうが如く「心配するな、成るようにしか成らん」だからだ。つまり心配したり、気にしていても、成ることはそのように成るのだから、気づまりに思うだけ「損」なのだ。
そういう中でも、いくつか演劇論にといての発展的発想があった。まず、これは吉本さんの有名な「関係の絶対性」(『マチウ書試論』)と「不可避性」の定義に対してなのだが、この「関係の絶対性」の「関係」をある関数座標と考えると、微分していくことによって、つまり、関数の関数を導く(導関数)をさらに関数にすることによって、加速度が得られるように、ニュートン力学的にも緻密化していけるのではないかということ。これは、何がどう「関係」するのかは、吉本さんの場合、ヘーゲル→マルクスの自然哲学(唯物弁証法)だから、「運動」している現象だと捉えることが出来るということだ。そうすると、「運動」に関していえば、「ラプラスの悪魔」における「初期値」は「初期値の記述の精度がいかほどであろうとも、それを破壊してしまうような不安定性が存在する」(イアン・ブリゴジン)の研究成果があり、これは、ニュートン力学にも量子力学にも共通に適応出来るものだから、「関係の絶対性」を「偶然の絶対性」といいかえることが可能だ。そうすると、必然は相対的になる。つまり、量子力学的に考えれば、「関係」というものが変容してしまうのだ。如何なる関係も「偶然」のものとなる。とはいえ、本質が変わったワケではナイ。「関係」が「座標」であり、唯物弁証法が「運動」ならば、それは、「相空間」という座標と運動量の空間内で現すことが出来る。そうすると、「関係」は、相空間内における「確率」ということになる。ならば「不可避性」というものは、「不可避性の確率度合い」として考えられる。この「運動」を「振動数(w)」としてみると、n1w+n2w=0のとき、共鳴が得られるという定義から、「関係」は、ある共鳴として理解することが出来る(この共鳴は楽器の倍音と同じ)。共鳴は拡散するので、軌道を描くことは出来ない。つまり、相空間内における時間tのその後における点Pは確実性をもって予測することは出来ない。ということは、この共鳴は、最初の点Pから確定した確率をもって、多くの点P1、P2、P3へと至ることが可能になる。
何をワケのワカランことをいってるのかと、首を傾げたり、唸ったりしている読者もいるだろうが、早い話、これは観客論への応用が可能だということだ。察しのつく方はいるかも知れないが、舞台と観客席の空間を「相空間」にみたてているのだ。(相空間というのは、ある座標系と運動量の関数で張られる空間のことをいう)
私は、ずっと、ニュートン力学と量子力学の分岐点(線引き)をどこに置けばいいかを考えてきたが、それは意味のナイことだった。要するに、双方の共通項(どちらにも通用する事象)を問題にすればそれですむことなのだ。私たちは、原因→結果という因果律からそろそろ解放されるべきだし、「関係の絶対性」と「不可避性」というものの、本質を変えずに深化させる作業に入ることが出来る。たぶん、ここから、私の演劇論はもう半歩くらいは進むことになる。

« food terraceの大衆 | トップページ | で、こんどは »

演劇」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/558792/55170620

この記事へのトラックバック一覧です: いくつかの発想:

« food terraceの大衆 | トップページ | で、こんどは »