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2012年7月 3日 (火)

ヨブ

ヨブとは旧約の『ヨブ記』のヨブだが、半月板断裂、睡眠時無呼吸障害の次ぎは、全身の麻疹だ。アレルギー体質ではないので、最初は、風疹にでもやられたかと思ったが、どうもそうでもナイようなので、医者に行って、抗ヒスタミン注射と飲み薬をもらった。蕁麻疹とは違ってひどく痒いということはナイが、熱るのはほてる。まんず、私の疾病は99%は原因不明なので、しょうがナイ。私はヨブのような義人ではナイが、どうも何か手違いが神のほうであるらしい。もちろん、まだ良くはなってくれない。
ところで、『ヨブ記』の主題は、ルシフェルとヤハウェの論争につきる。つまり天使長ルシフェルが「神のためひとはあるのか、ひとのために神はあるのか」という問答(論争)を神に仕掛けたことからヨブがその試験台にされたということだ。
ルシフェルの任務は地上の人間の監視を含む。つまり、多くの天使(三級九隊)の中では、もっとも人間に通じていたのだ。やがて、このことが発端になってか(どうかは知らんけれど)ルシフェルは叛乱を起こすことになる。大天使ミカエルを長とする天使軍との闘いだ。ちなみに、ミカエルは大天使だが、天使の中でのクラスは中の上だ。ルシフェルもまた同クラスだ。
そんなことはどうでもイイが、というか、そんなことは、ひととは関係のナイところでやってくれればイイのだ。
ヨブは、神に従順だが、一つ疑問を唱える。罰というものは、悪しきものに対して与えられるものではナイのか。なのに何故、善良で信仰厚い自分が試されねばならぬのか。
『ヨブ記』は多くの文学者や哲学者に影響を与えている。
ふつうの理屈であれば、つうか、論理を持ち合わせているものであれば、全知全能であるはずの神に、ヨブに対する試練の結果がワカラナカッタわけがあるまい。したがって、これは結果が云々の事象ではナイとするのが常識的だ。よーするに、ヤハウェとルシフェルの問答(論争)そのものが問題なのだ。
その点、仏教は、ひとを試すなどということがナイ。常に「ひと」というものを追求していく宗教としては、仏教が、キリスト教に先んじている。つまり、キリスト教が決定論的な宗教なのに対して、仏教は、非決定論なのだ。自然は非決定的だ。自然の道理としては、仏教のほうが勝っていると思うのは、単なる私の増長だろうか。

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