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2012年7月

2012年7月29日 (日)

ジュードー

柔道がオリンピックの正式種目になってから、いわゆるほんとうの「柔道」は終わった。かの空気投げで有名な小兵三船久蔵十段(身長159㎝、体重55㎏)が「体重で階級を分ける柔道などは柔道とはいわない」とコメントしたのも遠い話になってしまった。指導だの技ありだの、有効だの、なんだか何処でどう判定しているのか、要するに一本勝ち以外は柔道とはいわない。オリンピックはあくまで「ジュードー」というスポーツで、勝負に勝つのではなく、試合に勝たねばならない。
というのも、今し方、友人の家で(うちは受信料払ってナイので)NHKの柔道女子を観ていて、あの中村里見が、北朝鮮のなんたらというのに試合に負けた感想がひとこと述べたかったからだ。途中で、点数が同点になったのが、覆されて、けっきょく、中村の負けになったのだが、なんたらは指導を二つとられて、なんだかワカランうちに負けたなあ、と、やや、アホラシイような気になった。
柔道男子でも、いつの五輪だったかで、判定が覆されて、イチバン重たい階級の日本選手が負けたなあ。
中村里見が負けたのは、北朝鮮のなんたらの試合運びが巧かったからで、運がなかったからではナイと思う。もちろん、力や技などとは何の関係もナイ。中村は、また、次ぎも五輪に行けばいいのだ。やめられません金とるまでは、だ。人生の目標が出来てラッキーじゃないか。
以前にも書いたが、攻めなければ指導をとられるというのが、私にはまったくワカラナイ。柔道は攻める武道ではナイ。柔道に先手ナシ。押さば引け、引かば押せ。ほんとうはオリンピックに最も不向きな武道じゃないのか。それを、日本が金メダルに目が眩んで、種目にしたんだろ。てめえのやったことで、けっきょく、ほんものの柔道をダメにしちゃったなあ。しかし、北朝鮮の選手がかの谷亮子に勝って金メダルを奪取したときの、北朝鮮の選手の柔道は、かなりほんものの柔道だった記憶がある。ほーお、こんなところに誰が教えたのか、ほんものが残ってら、と思ったもんな。谷亮子がピョンピョン跳ねてるのに、相手の北朝鮮の誰だかさんは、スックと立ったままだったもんな。あのときは、気分が良かったけど、今日のは、どうも、いけねえな。
ルールは一つにすべし。どちらかが一本とるまで。

引越し

明日(30日)引越しです。山ひとつ越えるだけなんですが、山というのも造成されて住宅地になってますから、要するに坂道を越えるだけの引越しです。今度は天白川の傍で、また、もとに戻ったというふう。一応、住所を書いておきます。
〒468-0053 名古屋市天白区植田南3-708 白子ビル302
猫を飼ってもよいという大屋さんの譲歩での宿替えですが、8月は半ばから、『この恋やあきらめるべきさくらんぼ~夏Ver.~』の演出で、伊丹へ行きますので、名古屋には週に一日程度しか帰ってきません。
眼に腫瘍山ホトトギス初鰹、腫瘍ではなく痕跡だったのですが、眼のみえるうちにと、一心不乱、一気呵成、寸暇を惜しんで戯曲を一曲書き上げましたが、そのために今度は、腰をイタメました。腰にもサポーターです。ロクなことがナイような毎日ですが、嬉しい報せというのもありました。ここではアナウンス出来ませんが。ともかくも、悪運だけで、切り抜けているような日々であります。

2012年7月27日 (金)

いつか最後の夏が

仕事場の温度計は30℃を微動だにしない。昨日もそうだった。エアコンをつけているのだが、これだ。しばらく書き仕事をすると、暑くて、休憩ということになる。昨夜はつまらないことに拘ってオモシロクなかったので、一カ月ぶりに水割りを飲んだ。そうしたらどうだ、10時に寝たのだが、4時頃に気持ちが悪くなってきた。二日酔いの症状だ。たった二杯だったが、アルコールというのはひでえもんだなと、今日からはまた飲まないことにした。6時すぎに起きたが、もう陽ざしが暑い。名古屋の予想最高気温は36℃だそうだ。殆ど体温だ。つまり、ひとと密着しているのと同じということになる。
幾つか書いている小説のつづきを書く。今日はそういう余裕がある。水曜日までは、破竹の勢いで目がみえるうちにと、戯曲を書いていた。そいつに今日は少々手を入れて、売るアテもナイ小説だ。
釈迦は「愛」というものも「苦しみ」の中に入れた。キリスト教とはまったく反対だ。人間のことにおいては、釈迦は少なくとも聖書の作者よりは現実に通じていたようだ。愛は憎しみにとって変わる。漱石の『草枕』を読んでから、私は愛というコトバは使わないことにしてこれを「人情」というコトバに置き換えた。これで充分だと思う。このほうが日本人にとっては理解しやすいのではなかろうか、と思う。ただし、人情も5分もすれば変わってしまう。他の変わり方だってある。たとえば、人情で、他人に銭でもなんでも(銭がワカリヤスイからそうしておくが)1万円ほど与えたとする。貰ったほうは「私は乞食じゃナイっ」などと憤るかも知れない。しかし、1億円与えたらどうなる。やはり「私は乞食じゃナイっ」といえるだろうか。くだらねえ、と思う。1万円なら、乞食。1億円なら、貰えるものなら頂く。どうだ、そうじゃナイのか。だから、人情よりも「義理」だ。「義」と「理」なんだから。
温度計はびくともしない。しかし、いつか最後の夏は来るだろう。「ひでえ暑さだ」が変わる。「これで夏は終わりか」に。人情というものもそういうものだ。

2012年7月26日 (木)

複雑系

蕁麻疹、痛風、顎関節炎、出るものは出たというところで、眼科の検診で、網膜に腫瘍らしいものがあるので、国立病院の眼科の腫瘍の権威の医師のところへ再検診に行け、という、最後にえらいものに引っ掛かった。ネットで調べられることはすべて調べ、あらゆるシミュレーションをして、知人に報告し、今後のことは万全に手を尽くして、俎上の鯉で公演本番を終え、と、こういうことは覚悟を決めてしまえば、アトは、「心配するな、成るようにしかならん」という一休禅師のコトバのごとく、もう、しょうがない。そんな心構えも出来たので、ともかく、目がみえるうちにと、寸暇を惜しんで、書きおかねばならない戯曲を一曲書き上げた。
さて、再検診。さまざまな写真やデータを前に、権威は開口一番こういった。「よくワカラナイですね」。これは、まったく想定になかった。想定外というものはあるものだ。ワカラナイというのは具体的にはこういうことだ。「何かの痕跡であるということはワカルのですが、何の痕跡かはワカラナイ。しかし、これは終わっていることは確かで、何かが網膜で生じて、終わったということで、強いていうなら、毛細血管が破損して、こうなったということですかね」。
私のカラダはほんとうに正直だ。人体は複雑系とはいうが、私の場合、しごく単純に出来ているようだ。ストレスは、網膜の毛細血管まで壊したらしい。ともかく腫瘍でなくて良かった。いっときは、肺ガンからの転移も疑われたのだが、あるいは、ネット情報においては、まず悪性で、なんとかアト2年持たないですかね、と主治医の、ヒロコちゃんに訊ねたら、補中益気湯と、コウジン末さへ服用していれば癌で死ぬということはナイ(両方とも、免疫を上げる。癌の免疫療法は効果が大だが、高価も大なのだ)そうで、コウジン末も、知り合いの漢方薬局で買い求め、準備だけはしておいたが、要するに「ワカラナイ」という結果になった。私の罹病の九分九厘はたいていそれで、ときどき、自分が人類ではナイのではないかとさへ思うことがある。
全国の、ガン患者のみなさん、補中益気湯とコウジン(紅参)末ですよ。死なないそうです。

2012年7月16日 (月)

SLOFT/N日誌・5

本日より、現場の小屋入り、仕込み。当方は、右手は腱鞘炎、左手は痛風、顎関節炎に、右目がみえずらい。不思議なもので、半月板断裂のほうは、現在痛みはあまりナイ。ともかくも、順風満帆で、仕事なんざ出来やしない。
仕込みは、知り合いのスタッフの助っ人が何人も来てくれて、無事本日は終了。彼らが来てくれなかったら、どうなったことやら。
照明の巽くんは、今日は札幌に仕事だったのを、20時前に駆けつけて、ともかく、シュート終了。彼はリウマチで、膝に人工関節を入れているから、ゲートをくぐるとき、スゴイ警告音が鳴ったそうな。膝小僧の縦一文字の手術アトが生々しい。
手が痛いので、本日はここまで。

2012年7月15日 (日)

疑義ギイイイーッ

智に働けば角が立つ、とはいうが(夏目漱石『草枕』)、智恵を働かせるのはオモシロイ。腱鞘炎と診断された両手にサポーターをしながら、考えた。というのは、まあ、文章の成り行きで、ほんとうは、昨夜、手の痛みと蒸し暑さで布団の中でまんじりとしないでいたのだが、しばらくすると、手の痛みがむず痒いことに気がついた。そのむず痒さで、眠りは出来ないが、心地が悪いということはナイ。人間、妙なものだ。そのうち、この痛みは何かに似ていると思い、ハッと、痛風の痛みと同じだと、跳ね起きて、ネットで検索してみると、痛風は必ずしも足だけに出るものではなく(ということは知っていたのだが)手にも出ることを確認した。痛風という疾病、病変は、原因がワカッテいない。単純に考えれば、尿酸の排出不全なのだから、どこに尿酸が溜まってもおかしくはナイ。だいたいにして、両手いっぺんに、腱鞘炎が出ることのほうが不自然だし、痛みは腱などナイところにも出ていて、赤くなって少々膨らんでいる。ここんところ、蕁麻疹でパソコン仕事は休み休みだから、指を使いすぎたということもナイ。そこで、どうせ処方されたのがロキソニンだけなのだから、コルヒチンを10㎎、追加服用した。で、高取英氏に伝授されたサクランボを購入にしに行くことに決めた。この前の足は、治りかけだったので、サクランボを食うには食ったが、それが効果を示したのか、どうか、よくワカラナイ。
まことに、いまの整形外科は、老人治療のベルトコンベアーで、診療といっても、医師とのコミュニケーションが薄い。というより、コトバの使い方次第なのだがなあと思うところが多々ある。昨日の、噛み合わせの痛みも医師は、とりあえず、顎に触れるなりしてみて「これは、○○だと思いますが、ここより、口腔外科に行かれたほうがよろしい」といえば、良かったのだ。それを「これは○○だが、口腔外科だな」で、触れもせで、では患者はやりきれない。触診がナイというのは、どうして手抜きに感じざるを得ない。医師のやってることは次々に患者の名前を呼んで、データを渡し、患者は、これまた次々と、注射、リハビリと、去っていく。要するにベルトコンベアー医療だ。口腔外科ではあるが、整形外科に出来ることはないのか。あるのだろうが、医師は患者とのリスクを極力避けたがる。つまり、治せるものだけ治す、という在り方だ。かつて、診療を受けた整形外科も同様で、ここは「原因がワカラナイものは治せない」とまでいわれた。で、これは、町の整体で治した。整体は医療ではナイが、医療が疾病すべてに効力を持つとは限らない。その証拠が、いまの薬店ドラッグストアに並ぶ、サプリメントの多さだ。効果の期待出来るものは、せいぜいがビタミン類だけだが、ウコンの爆発的ヒットはまだ耳に新しい。
さて、現在は、水道の詮や、ペットボトルを開けるのも往生しているが、ともかく生きてゆかねばならない。まだ仕事が残っている。ベルトコンベア式に死ぬのだけはごめんだ。

2012年7月14日 (土)

で、こんどは

右目の上部に雲母のようなものがみえ始めたので、こんどは眼にきたか、眼科にゆかねばと思っていて、今朝起きたら、両手の掌が指の付け根から痛む。蕁麻疹がやや治まってきて、痛風が消えてきたら、こんどはなんだ。ネットでともかく調べて、おそらく腱鞘炎かなと、整形外科にいく。一週間ほど前から右頬の顎の噛み合わせが痛くて、口腔外科にも行かねばと思っていたので、ちょうどいいやと、ついでに相談することにして、診断はやはり腱鞘炎で、処方されたのがロキソニンときた。噛み合わせのほうは○○○○だろうから口腔外科へ行けといわれた。そりゃあ、そうだけど、かつての医者は外科本道、二つしかなかった。本道というのは内科全般だが、要するに外科以外のことをいう。いまだって医療おたく的医師は、内科小児科から耳鼻咽喉科心療内科にいたるまで一人で二桁にせまる専門科目を挙げているが、それもどうかとは思うが、かくして、まだ歩けるものは、一日いくつもの医院、医者詣でをすることになる。財布の中は医院の診察券で溢れるという寸法だ。
サポーターを買って、ともかく右手だけカバーしているが、両手ときているもんだから、今晩の晩飯に予定の炒飯も、たぶん左手でフライパンが持てないんじゃないかな。現在、キイを叩く指も痺れている。ここは、もはや出来る仕事というと、次ぎの作品の資料を読むくらいだなと、安住恭子さん・著の<『草枕』の那美と辛亥革命>を読み始めた。引っ越してからにしようと思っていたのだが。
医院の待合室で、九州の記録破りの豪雨のニュースをやってた。あの豪雨の中、避難してきたひとの中にも、多くの、疾病患者のひとびとがいるのだなと思うと、突然、日本の政党政治などというものなど、糞の役にもたたないシロモノだなという腹立たしさが込み上げてきた。いまほど、政治と世間が乖離している時代を経験したことはナイ、なんて大袈裟なことも考えた。
ともかくも、痛いので、ここまで。

2012年7月11日 (水)

いくつかの発想

蕁麻疹がやや治まってきたら(クスリで抑えているだけけなのだが)、痛風ときた。ビールはおろかアルコールはまったく口にしていないから、ストレスで出るものは出るといったところだ。ステロイドに加えて、昨日からコルヒチンだ。私の場合、カラダが正直に反応するので、ストレスは全部、症状として出る。今回の蕁麻疹、痛風、それからいつもは咳き込みに不整脈。さて、そういうのは、もうしょうがない。一休禅師のいうが如く「心配するな、成るようにしか成らん」だからだ。つまり心配したり、気にしていても、成ることはそのように成るのだから、気づまりに思うだけ「損」なのだ。
そういう中でも、いくつか演劇論にといての発展的発想があった。まず、これは吉本さんの有名な「関係の絶対性」(『マチウ書試論』)と「不可避性」の定義に対してなのだが、この「関係の絶対性」の「関係」をある関数座標と考えると、微分していくことによって、つまり、関数の関数を導く(導関数)をさらに関数にすることによって、加速度が得られるように、ニュートン力学的にも緻密化していけるのではないかということ。これは、何がどう「関係」するのかは、吉本さんの場合、ヘーゲル→マルクスの自然哲学(唯物弁証法)だから、「運動」している現象だと捉えることが出来るということだ。そうすると、「運動」に関していえば、「ラプラスの悪魔」における「初期値」は「初期値の記述の精度がいかほどであろうとも、それを破壊してしまうような不安定性が存在する」(イアン・ブリゴジン)の研究成果があり、これは、ニュートン力学にも量子力学にも共通に適応出来るものだから、「関係の絶対性」を「偶然の絶対性」といいかえることが可能だ。そうすると、必然は相対的になる。つまり、量子力学的に考えれば、「関係」というものが変容してしまうのだ。如何なる関係も「偶然」のものとなる。とはいえ、本質が変わったワケではナイ。「関係」が「座標」であり、唯物弁証法が「運動」ならば、それは、「相空間」という座標と運動量の空間内で現すことが出来る。そうすると、「関係」は、相空間内における「確率」ということになる。ならば「不可避性」というものは、「不可避性の確率度合い」として考えられる。この「運動」を「振動数(w)」としてみると、n1w+n2w=0のとき、共鳴が得られるという定義から、「関係」は、ある共鳴として理解することが出来る(この共鳴は楽器の倍音と同じ)。共鳴は拡散するので、軌道を描くことは出来ない。つまり、相空間内における時間tのその後における点Pは確実性をもって予測することは出来ない。ということは、この共鳴は、最初の点Pから確定した確率をもって、多くの点P1、P2、P3へと至ることが可能になる。
何をワケのワカランことをいってるのかと、首を傾げたり、唸ったりしている読者もいるだろうが、早い話、これは観客論への応用が可能だということだ。察しのつく方はいるかも知れないが、舞台と観客席の空間を「相空間」にみたてているのだ。(相空間というのは、ある座標系と運動量の関数で張られる空間のことをいう)
私は、ずっと、ニュートン力学と量子力学の分岐点(線引き)をどこに置けばいいかを考えてきたが、それは意味のナイことだった。要するに、双方の共通項(どちらにも通用する事象)を問題にすればそれですむことなのだ。私たちは、原因→結果という因果律からそろそろ解放されるべきだし、「関係の絶対性」と「不可避性」というものの、本質を変えずに深化させる作業に入ることが出来る。たぶん、ここから、私の演劇論はもう半歩くらいは進むことになる。

2012年7月 8日 (日)

food terraceの大衆

昨夜は零時半まで原稿の赤入れをしていたのだが、今朝は5時半に目が覚めた。アルコールをこの一週間ほど、一滴も口にしていないので、蕁麻疹のほうは治まらないが体調が悪いとはいえないというふうな、妙な感じで、ときどき目眩がする程度だ。10時半に近所の大型スーパーで蕎麦でも食うかと、出てみると、熱いのなんの。で、蕎麦食って、トイレにいって、しゃがんでたら、ここ十年は観たこともない一本糞がドンと出た。アルコールを抜くとチガウねえ。しばし眺めて、写真にでも撮ろうかと思ったほどだ。そいで休憩、涼しいfood terrace、まあ、大衆食堂の豪華版かな。だって大衆しかいないから。数十年も鬱病やっていると、そういう大衆の中でも、神経症、精神疾患の傾向のあるものは、たいていワカルようになってしまった。たとえば、テーブルひとつ離れて座った家族。父親に母親に小学生低学年くらいの男の子。母親はたぶん、うんと若い。ただし、うんとどころか、どんと太っている。父親も大柄だ。子供だけが痩せている。この母親、病気ダナ、と思った。理由その一、座ってから一度も子供に声をかけないどころか、子供のほうを観ない。子供は父親の隣に座ってゲーム機で遊んでいる。理由その二、要するに、その太り方が健康的ではナイ。ナニカのフラストレーションか、精神あるいは神経疾患があって、食っているという太り方だ。注文した品を父親が取りにいく。母親の分は、カツ丼と天むす。で、子供には、ポテトフライだけ。ヤバイよなあ。
「大衆の原像」を思想に組み込めない思想はダメだと述べた吉本さんも、いちばん手こずったのはその「大衆」なんじゃないだろうか。インテリなんざ、楽に撃退していた吉本さんだが、もっとも難しい問題として「大衆」を選んだのだと思う。つまり、私どもについていえば、大衆とは「観客」のことになる。私たちのいうインテリとは演劇評論家とか批評家とか、同業者の連中のことだが、私にしてみれば、そういう人々はえてして、問題にしなくてもイイのだ。現に殆ど問題にしていない(すんませんね、気にはかけてますからね)。しかし、観客はヤッカイなのだ。「観客の原像」、ありますかね。そんなもの作品に組み込もうとも思ってないけど。「観客論」なら、いまやってる最中だ。観客の面倒なところは、演劇というものが、観客ナシでは成立しないというところにある。本番さへなければ、演劇も楽しいんだけど。
帰りに、夏用のパジャマを買おうとしたが、五千円近くしたので、980円をさらに三割引という、七分丈の人絹和装なんだかワカランのを買って、さっそく穿いてみたが、けっこう肌触りもよく、涼しい。いい買い物だったな。
そうそう、書店に寄って、吉本さん特集の雑誌を立ち読みしたけど、やっぱり麻原オウムのことについては、けっこう錯綜してるみたいでしたね。呉智英センセイが「吉本異論」を書いてらしたけど、そいで、いつも呉センセイには「ごもっとも」としかいいようがナイんだけど、どうしても、センセイの学問は「商売」だし、これは「商品」だよな、と、思ってしまうんですわ。いろいろと勉強させてもらってるのにネエ。吉本さんの麻原擁護だかについては、私はよくワカラン。ワカランというのは、麻原の教義を知るチャンスがナイから麻原がワカランといっているのだ。吉本さんが、麻原を擁護したのはワカル。それは故人談志家元の次ぎのひとことにつきる「やれば出来るじゃねえか」。

2012年7月 6日 (金)

残された問題

昨夜は、稽古を休んでみたが、相変わらず蕁麻疹は出る。かなりさまざまな資料を調べてみて、要するに蕁麻疹自体が未知のものでしかナイ、ということがワカッタだけだ。これは、演劇の勉強を始めて、演技とは何かについて如何なる書の理論にも焦燥したのと似ている。おおよそは、ストレス性のもので、温度が関係していることあたりまでは、見当はついた。血圧は正常だが、ほんの少しの微熱(というのも妙な表現だが)があるからだ。夏は、私の場合、けっこう体温が上がることがあるのだが(子供もそういうことがよくある)、気温、湿度、体温、それがストレスと関係して、アレルギー(疾病におけるアレルギーと区別して、非アレルギーというらしいが)の源義経となっているらしい。弁慶が必要だな。主治医の処方のクスリは正しいと判断した。ステロイドも最小量で処方されているが、ステロイドの副作用に対する迷妄は、漢方薬に対するものと反比例するように、世間に流布している。漢方薬にも副作用はある。また、長期間服用しないと効かないなどということはナイ。一週間服用して効果のナイ漢方薬は、処方違いだと考えて、変えてもらったほうがイイ。漢方薬はかなり複雑なつくりだから(と、いうのも、患者個々に合わせるものだから)、ぴったり合うものを求めるのは難しいのだ。ステロイドにしても、医師の匙加減だ。大量に長期使えば、おかしくなるのに決まっている。要するに、医師と薬剤師のコンビネーションというところだ。アトピーの罹患者も、そのあたりはうまく配慮されて治療を受けているはずだ。つまりは、クスリというのは毒だ。ワクチンも毒を薄めたものだということくらいは知っているだろうけど(と、いうと、へえ、そうなの、というのが中にはいるのだ、ほんとに)、抗生剤も然り。菌耐性が出来たらそれまでよ、の世界だ。
さて、そんなこんなでも、『恋愛的演劇論』は、いよいよ最後の章に入っているのだが、残された問題がなかなか、スッと腑に落ちてくれない。ニュートン力学と量子力学との双方を以て生きている私たちの、線引きだ。あるいはその関係だ。環境世界においてニュートン力学で生活している私たちなのだが、量子力学と、概念としてよく似たふるまいをする。とくに心的領域においてはそうだ。これを単なるアナロジーとしてしまうか、何か本質的なものとして扱うかが、残された問題というものだ。ここは、気の済むまで考えたいところだ。

2012年7月 5日 (木)

還暦のご挨拶

太陽暦(グレゴリオ暦)2012年、和暦平成24年、皇紀2672年、7月5日で、満六十歳の誕生日をむかえました。パソコンを前に座って仕事を始めると、5分足らずで全身に蕁麻疹が出ます。なかなかのgiftではありませんか。生きることなど「どうでもイイ」ことなのですが、幸いにして、書くということは、どうでもイイことでもナイようで、これまで多くの作品が、こういうインシデンタルなギフトの状況から産まれました。夜はカラダが火照り、あちこちが痒くて眠れませんが、まだ少し地上任務が残っているので、それを遂行、仕上げることに残余の生をもって、臨みたいと思います。
蕁麻疹は、ストレス自体が原因というものではなく、書くこと(仕事)によるエネルギーの代謝に対する心身の誤作動だと思われます。熱くて、ランニングシャツ一枚で書いてますから。こういう事象は、キリスト教信者であれば、試練ととらえるでしょうが、仏教者であれば修行ととらえるのではないかと思います。その判断は、面々、お計らいになればよろしいでしょう。私は、私の好きなシジフォスのごとく、ゆっくり岩を山頂に運んでいくだけのことです。これが、原生疎外でしたら、その解消は「死」ということになりますが、純粋(自己)疎外と捉えて、残った仕事をやり遂げていきます。

2012年7月 3日 (火)

ヨブ

ヨブとは旧約の『ヨブ記』のヨブだが、半月板断裂、睡眠時無呼吸障害の次ぎは、全身の麻疹だ。アレルギー体質ではないので、最初は、風疹にでもやられたかと思ったが、どうもそうでもナイようなので、医者に行って、抗ヒスタミン注射と飲み薬をもらった。蕁麻疹とは違ってひどく痒いということはナイが、熱るのはほてる。まんず、私の疾病は99%は原因不明なので、しょうがナイ。私はヨブのような義人ではナイが、どうも何か手違いが神のほうであるらしい。もちろん、まだ良くはなってくれない。
ところで、『ヨブ記』の主題は、ルシフェルとヤハウェの論争につきる。つまり天使長ルシフェルが「神のためひとはあるのか、ひとのために神はあるのか」という問答(論争)を神に仕掛けたことからヨブがその試験台にされたということだ。
ルシフェルの任務は地上の人間の監視を含む。つまり、多くの天使(三級九隊)の中では、もっとも人間に通じていたのだ。やがて、このことが発端になってか(どうかは知らんけれど)ルシフェルは叛乱を起こすことになる。大天使ミカエルを長とする天使軍との闘いだ。ちなみに、ミカエルは大天使だが、天使の中でのクラスは中の上だ。ルシフェルもまた同クラスだ。
そんなことはどうでもイイが、というか、そんなことは、ひととは関係のナイところでやってくれればイイのだ。
ヨブは、神に従順だが、一つ疑問を唱える。罰というものは、悪しきものに対して与えられるものではナイのか。なのに何故、善良で信仰厚い自分が試されねばならぬのか。
『ヨブ記』は多くの文学者や哲学者に影響を与えている。
ふつうの理屈であれば、つうか、論理を持ち合わせているものであれば、全知全能であるはずの神に、ヨブに対する試練の結果がワカラナカッタわけがあるまい。したがって、これは結果が云々の事象ではナイとするのが常識的だ。よーするに、ヤハウェとルシフェルの問答(論争)そのものが問題なのだ。
その点、仏教は、ひとを試すなどということがナイ。常に「ひと」というものを追求していく宗教としては、仏教が、キリスト教に先んじている。つまり、キリスト教が決定論的な宗教なのに対して、仏教は、非決定論なのだ。自然は非決定的だ。自然の道理としては、仏教のほうが勝っていると思うのは、単なる私の増長だろうか。

『大幽霊烏賊~名探偵面鏡真澄』感想

「異能の乱歩賞作家による驚愕の精神医療ミステリー」というキャッチと、昭和のはじめ、日本で最初に出来た専門精神病院で起きた凄惨な事件、という帯の文句に乗せられて買ってみたが(講談社・2000円・ハードカバー)、黴の生えたつまらんミステリだった。3ページほど読むと、仕掛けはもうワカルのだが、要するに「まとまり」が悪い。そういう仕掛けでなら書き方はあったろうが。昭和のはじめはいう縛りがあるから仕方ないとはいえ、アインシュタインの相対性理論の応用も下手だとしかいいようがナイ。おまけに、もっとも重要な奇怪な出来事のタネがアホくさい。イイカゲンにしろよ、いいたくなる。574ページの長編なのだが、無駄がありすぎる。肝腎の「烏賊」がまたクダラナイ。読了したときのfrustrationをどうしてくれる。

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