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2012年7月 8日 (日)

food terraceの大衆

昨夜は零時半まで原稿の赤入れをしていたのだが、今朝は5時半に目が覚めた。アルコールをこの一週間ほど、一滴も口にしていないので、蕁麻疹のほうは治まらないが体調が悪いとはいえないというふうな、妙な感じで、ときどき目眩がする程度だ。10時半に近所の大型スーパーで蕎麦でも食うかと、出てみると、熱いのなんの。で、蕎麦食って、トイレにいって、しゃがんでたら、ここ十年は観たこともない一本糞がドンと出た。アルコールを抜くとチガウねえ。しばし眺めて、写真にでも撮ろうかと思ったほどだ。そいで休憩、涼しいfood terrace、まあ、大衆食堂の豪華版かな。だって大衆しかいないから。数十年も鬱病やっていると、そういう大衆の中でも、神経症、精神疾患の傾向のあるものは、たいていワカルようになってしまった。たとえば、テーブルひとつ離れて座った家族。父親に母親に小学生低学年くらいの男の子。母親はたぶん、うんと若い。ただし、うんとどころか、どんと太っている。父親も大柄だ。子供だけが痩せている。この母親、病気ダナ、と思った。理由その一、座ってから一度も子供に声をかけないどころか、子供のほうを観ない。子供は父親の隣に座ってゲーム機で遊んでいる。理由その二、要するに、その太り方が健康的ではナイ。ナニカのフラストレーションか、精神あるいは神経疾患があって、食っているという太り方だ。注文した品を父親が取りにいく。母親の分は、カツ丼と天むす。で、子供には、ポテトフライだけ。ヤバイよなあ。
「大衆の原像」を思想に組み込めない思想はダメだと述べた吉本さんも、いちばん手こずったのはその「大衆」なんじゃないだろうか。インテリなんざ、楽に撃退していた吉本さんだが、もっとも難しい問題として「大衆」を選んだのだと思う。つまり、私どもについていえば、大衆とは「観客」のことになる。私たちのいうインテリとは演劇評論家とか批評家とか、同業者の連中のことだが、私にしてみれば、そういう人々はえてして、問題にしなくてもイイのだ。現に殆ど問題にしていない(すんませんね、気にはかけてますからね)。しかし、観客はヤッカイなのだ。「観客の原像」、ありますかね。そんなもの作品に組み込もうとも思ってないけど。「観客論」なら、いまやってる最中だ。観客の面倒なところは、演劇というものが、観客ナシでは成立しないというところにある。本番さへなければ、演劇も楽しいんだけど。
帰りに、夏用のパジャマを買おうとしたが、五千円近くしたので、980円をさらに三割引という、七分丈の人絹和装なんだかワカランのを買って、さっそく穿いてみたが、けっこう肌触りもよく、涼しい。いい買い物だったな。
そうそう、書店に寄って、吉本さん特集の雑誌を立ち読みしたけど、やっぱり麻原オウムのことについては、けっこう錯綜してるみたいでしたね。呉智英センセイが「吉本異論」を書いてらしたけど、そいで、いつも呉センセイには「ごもっとも」としかいいようがナイんだけど、どうしても、センセイの学問は「商売」だし、これは「商品」だよな、と、思ってしまうんですわ。いろいろと勉強させてもらってるのにネエ。吉本さんの麻原擁護だかについては、私はよくワカラン。ワカランというのは、麻原の教義を知るチャンスがナイから麻原がワカランといっているのだ。吉本さんが、麻原を擁護したのはワカル。それは故人談志家元の次ぎのひとことにつきる「やれば出来るじゃねえか」。

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