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2012年6月19日 (火)

こう意見(異見)されたこともあった

少し前になるが、まだ自分の中で前記の考えがハッキリとまとまっていなかった頃、こんなふうではないかと語ったときに、それはチガウと異論を説かれたことがあった。彼がいうには「きみは、ブレヒトの唯物弁証法的な演技論を知らないのではないか。ブレヒトによると、俳優と役(の上の人物)というのは、常に弁証法的に関係していて、俳優は役の上の人物を批評、批判しながら、次第に役を創っていくのであって、舞台においては、幻想としての身体などというのは観念論にしか過ぎない。つまり、俳優Aはいつも役と同時に存在するのだ」だと。
私は自身の演劇論をおおまかにしか捉えてはいなかったが、この説に対しては、私に諭した彼が唯物弁証法というものを間違って学んだか、ブレヒトそのひとが、錯誤して用いたかにしか過ぎないとだけは判断することは出来た。なぜなら、もし、彼がいうように、俳優Aが常に役とともに在って、あるいはいまでいうならベクトル合成のようにして存在しているとしたら、その俳優Aは「役のことを批評・批判」しているところの俳優Aであって、そういう俳優Aは、「私」というものによって対象化されたひとつの像としての人物にしか過ぎない。つまり、ヘーゲルふうにいえば、弁証法というものは、対象と私とだけの問題ではなく、私と対象物と、「私と対象物を捉えている私」というふうに階梯していくからだ。弁証法が観念的であれ、唯物論的であれ、それが運動である限り、この連鎖はキリがナイことくらいは知っておいたほうがイイ。キリがナイから、その到達をヘーゲルは「絶対精神」などとして、かたや、マルクス主義のほうは、「永久革命」なんぞというものを持ち出したのだから。
演技者Aが戯曲から台本化するときにイメージとして捉えたハムレットは、イメージのままでは使えないので、舞台では実体化する。実体化というのと、現実のというものはチガウ。だいたいにおいてハムレットなど、歴史上存在しない架空の(虚構の)創作人物だし、もし、存在したとしても(実在したとしても)、それがどういう人物であったかというのは、演技者の判断と創造にしか委ねようがナイ。舞台の上のハムレットは、演技者Aのイメージが逆立して創った実体でしかナイ。さらにそこに演技者Aを同時存在させることは、上記でいったように、もう一つの演技者Aというイメージを創ることでしかナイ。ここはどうしても、演技者として、いや、表現とはそういうものではナイといいたい気持ちはワカラナイでもナイ。なぜなら、演技を自己表現(行き着いて自己実現)だと思いたいからだ。演技は自己を表現するものではナイ。あくまで「役」を表現するものだ。
たとえば、ムンクやゴッホが一枚の絵を描いたとする。それはムンクやゴッホが描いたところの「絵」であって、そこにムンクやゴッホの魂がくっついているワケではナイ。ムンクやゴッホはその絵と「関係」をもって存在している。演技者が「役」を演じるのも同じことだ。その「役」は演技者Aが演技(表現)した、ハムレットであって、演技者Aがくっついているワケではナイのだ。こういう錯覚、錯誤は、演劇が自身の身体を表現の素材に用いるところから来るものでしかナイ。

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