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2012年6月17日 (日)

うりんこ有志・レクチャー録

古屋の職能劇団『うりんこ』のうちださんの企画で、16時~18時の二時間、演劇論のレクチャー。うちださんは、かの『ヴァイアス』(私がもっとも愛する、avecビーズのrepertory)にも、過去出演してもらっていて、このブログの読者でもある。
前説の殆どはテキヤの話。これはサービスのようなもので、本論の演劇論に入る。ほんとうは、このようなものは現場を営む人々には必要なものではナイ。つまり、なくても、知らなくても支障がナイ。しかし、演劇論としてレクチャーする場合は、やらねばしょうがナイところ。SLOFT/Nのワークショップ「えんげきの『え』」とどうように「演技とは何ですか」「演じるとは何ですか」というもっとも素朴な問いかけから始める。答がどのようなものであろうと、そのものの演技能力とは関係がナイ。というか、答そのものはどうでもイイのだ。ここからレクチャーに入りますよの入り口だ。ただ、SLOFT/Nと同じように、どうしても答えるがわは抽象的な答えを提出する。単純そぼくに、いつもやってることを答えればイイのだ。「演技とは日常です」というような答もあったが、それでもイイ。職業でやっているという自負なんだから、それでイイ。いっそ「私たちの仕事です」とでもいえば、もっとよかったろうけど。
ともかくも、SLOFT/Nにおける進行どおりに、演技の構造をレクチャーしていく。さて、残り10分くらいのところで、おそらく、と予想したごとくの[?](question)が入る。フレーズする。ここは、SLOFT/Nのときは、さほど大きくはなかったが、殆ど毎日、仕事として演劇を営為しているものにとっては、身の置き所として納得がいかないところだ。
つまり、「演技者の現実の私は、戯曲を通過する際に終わっていて、私-演技者の現実は、[視線・視点・視座]として、心的領域に移行する」というところだ。具体的にいえば、舞台の上に在るのは、役という実体であって、演技者の現実はそこにはナイということだ。『ロミオとジュリェット』のロミオを演じている場合、そこにあるのは「役」としてのロミオであって、演技者はこれと「了解」「関係」しているだけなのだが、私の演劇論としては、ここを理解してもらわないと、舞台の上の身体が「幻想(観念)としての身体」だという部分へとつながらない。しかしながら、前記の理由において、「了解」と「関係」の仕方が、舞台には演技者の身体が在るために、一挙に心的領域という部分(視線・視点・視座)までに移行するのは経験的に理解することが困難だということは、私としてもよくワカル。
これは、ワン・プロット、私がレクチャーの順序だての部分を飛ばしたために生じたフリーズ、[?]だ。SLOFT/Nの場合も、このワン・プロットは飛ばして、それで特に大きな動揺はなかったのだが、演劇を職業としている人々にとっては、入れるべきだったろう。なぜなら、演劇を生活の要綱として生きている人々にとっては、舞台の上の身体としての[私]を、そう簡単に舞台の上から、消すことは納得が出来ないだろうからだ。そのような反省を含めて、とはいえ、いいたいことはたいていいえたと、思う。
次ぎにもう一回あるとして、早ければ9月の下旬あたり以降に、出来ますね、と、うちださんと、一言ふた言、いいつつ雨の中を帰路につく。飯代だけでイイといっておいたのだが、牛丼ではなく、中華のコースが食える飯代を頂戴して、さらに、シングルモルトのスコッチを頂き、帰ってからシャワーして、すぐに飲む。これが美味い。
イイ仕事をして、美味い酒を飲む。充分、充分。

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