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2012年6月

2012年6月28日 (木)

はらはら、と

一枚、いちまい、なにかが剥がれるようにして、時代は終わっていく。ザ・ピーナッツの伊藤エミさん死去、享年71歳。/舞い落ちしパラソルの影はらはらとなにをしらせんその意味を問う/
サロン演劇というのが、むかし、あったような気がする。インテリたちが集まってなにやら理屈をいいあいながら、その流れで居酒屋で気勢をあげたりしていたような気がする。インターネット依存症がある時代だ。アウトネットとしての演劇の現場があっておかしくはナイ。演劇は演劇ごっこをやっているときがイチバン楽しいからだ。それを悪いとは思わない。ひとは集うし、また、そこを足掛かり、きっかけにして、さまざまに生きればイイんじゃないか。とはいえ、独り、地獄を彷徨わねばならないときもまたあるのだ。
この前の伊丹の塾のアト、いつものように軽く一杯、師範と館長と担当と。館長が、自分のカラダのいろいろと壊れてきたことをいう。べつに嘆いているワケではナイが。そりゃあ、壊れる。闘っていれば、誰だって疵を負う。壊れつつ闘うという戦術も学ばねばならない。そういう年齢なのだ。
エミさんの71歳は、女性にしては若死にだった。まだまだ美しかったろうと思う。

2012年6月19日 (火)

SLOFT/N稽古日誌・5

ジム・ジャームッシュの『リミッツ オブ コントロール』を観て、何度も苦笑、大笑いしながら、ああ、こういう芝居が創りたいなあと思う。処女作から比べると実に洗練されてはいるが、ジャームッシュのジャームッシュらしさはいよいよ鋭く、「失うものは銭と命しかナイ」と、この監督の映画はいつもそういっているようでならない。ポスト・ドラマ演劇がどんなものか、一度も観たことはナイのだが、その批評などを読むと、おそらくは象徴(symbol)か喩(metaphor)か形態(form)がストーリーやプロットを拡張しているのに過ぎないのではないかと想像してしまう。ジャームッシュの映画は、それら自体がすでに映画という虚構に凌駕されているのだ。いわゆる、現実を喩として描くか、喩で現実を描くかというところは、現在の演劇表現者には自問されてイイと思う。
SLOFT/Nの稽古は、なんとか吐き気と発熱ナシで観られるようになってきた。その理由のひとつには、SLOFT/Nという集まりが、何の共同幻想にもとらわれていないという健康的な部分として私にみえてきたからだ。
演出担当が緻密な(私からいえば些細な)ところに執着する理由は、演出者の固有性だからしょうがナイが、ときおり、演出担当が、全体の流れを見失う(混乱する)場面に遭遇する。ここは崇徳院でいかないとなあ。「われてもすえにあわんとぞおもふ」だ。
和気あいあいに進んでいるようにみえながら、私がここは、というところをレクチャーすると、みなさん、眼差しが変わって台本に書き込んだりする。そういうところはキチンと演技塾になっているなあと、私自身が感心するところだ。てんぷくプロさんの稽古場はちょうどイイ広さで、私にも演技者の各様が個々にワカッテきた。これは私がSLOFT/Nをはじめたプランに合致するもので、私もいい資本を増やしたと満足している。得るものは多い。そうして、失うものは銭と命しかナイ。

こう意見(異見)されたこともあった

少し前になるが、まだ自分の中で前記の考えがハッキリとまとまっていなかった頃、こんなふうではないかと語ったときに、それはチガウと異論を説かれたことがあった。彼がいうには「きみは、ブレヒトの唯物弁証法的な演技論を知らないのではないか。ブレヒトによると、俳優と役(の上の人物)というのは、常に弁証法的に関係していて、俳優は役の上の人物を批評、批判しながら、次第に役を創っていくのであって、舞台においては、幻想としての身体などというのは観念論にしか過ぎない。つまり、俳優Aはいつも役と同時に存在するのだ」だと。
私は自身の演劇論をおおまかにしか捉えてはいなかったが、この説に対しては、私に諭した彼が唯物弁証法というものを間違って学んだか、ブレヒトそのひとが、錯誤して用いたかにしか過ぎないとだけは判断することは出来た。なぜなら、もし、彼がいうように、俳優Aが常に役とともに在って、あるいはいまでいうならベクトル合成のようにして存在しているとしたら、その俳優Aは「役のことを批評・批判」しているところの俳優Aであって、そういう俳優Aは、「私」というものによって対象化されたひとつの像としての人物にしか過ぎない。つまり、ヘーゲルふうにいえば、弁証法というものは、対象と私とだけの問題ではなく、私と対象物と、「私と対象物を捉えている私」というふうに階梯していくからだ。弁証法が観念的であれ、唯物論的であれ、それが運動である限り、この連鎖はキリがナイことくらいは知っておいたほうがイイ。キリがナイから、その到達をヘーゲルは「絶対精神」などとして、かたや、マルクス主義のほうは、「永久革命」なんぞというものを持ち出したのだから。
演技者Aが戯曲から台本化するときにイメージとして捉えたハムレットは、イメージのままでは使えないので、舞台では実体化する。実体化というのと、現実のというものはチガウ。だいたいにおいてハムレットなど、歴史上存在しない架空の(虚構の)創作人物だし、もし、存在したとしても(実在したとしても)、それがどういう人物であったかというのは、演技者の判断と創造にしか委ねようがナイ。舞台の上のハムレットは、演技者Aのイメージが逆立して創った実体でしかナイ。さらにそこに演技者Aを同時存在させることは、上記でいったように、もう一つの演技者Aというイメージを創ることでしかナイ。ここはどうしても、演技者として、いや、表現とはそういうものではナイといいたい気持ちはワカラナイでもナイ。なぜなら、演技を自己表現(行き着いて自己実現)だと思いたいからだ。演技は自己を表現するものではナイ。あくまで「役」を表現するものだ。
たとえば、ムンクやゴッホが一枚の絵を描いたとする。それはムンクやゴッホが描いたところの「絵」であって、そこにムンクやゴッホの魂がくっついているワケではナイ。ムンクやゴッホはその絵と「関係」をもって存在している。演技者が「役」を演じるのも同じことだ。その「役」は演技者Aが演技(表現)した、ハムレットであって、演技者Aがくっついているワケではナイのだ。こういう錯覚、錯誤は、演劇が自身の身体を表現の素材に用いるところから来るものでしかナイ。

2012年6月18日 (月)

量子力学で観る演技者と「役」

『恋愛的演劇論』の最終章ではあきらかになるのだが、前回のうりんこ講義も踏まえて、というのはSLOFT/Nのレクチャーも踏まえてだが、演技者が演技に入っていく過程というものを現すのに、もっとも手っとり早いのは、実は量子力学の考えなのだ。順を追って解説していくと、演技者は戯曲を手にして読む(ここから戯曲の台本化という作業が始まる)。演技者Aはたとえばそのホンがシェイクスピアの『ハムレット』であるとして、男性であればハムレット、女性であれば、オフィーリアが自身の役だとする。ここでは男性のほうだけをとってみるが、演技者Aは、ハムレットのセリフから、その「役」をイメージする(厳密にいえば、その役のシチュエーションをということになるのだが)。つまり、観念的(幻想)に脳裏に持つことになる。そこで、次ぎは、その脳裏にあるイメージを舞台で実体化する。いってみれば演技者がやるのは、たったこれだけの単純なことだ。しかし、ことはそう簡単ではナイ。単純なものが簡単だというのはマチガイだ。演技者Aの脳裏には、幾つものパターンのハムレットが浮かぶはずだ。そのすべてを舞台に実体化出来るということはナイ。どれか一つだ。この場合、量子力学が、量子の測定において、その測定値(固有値)を求めるのに似ている。ハイゼンベルクの不確定性原理によって、量子の位置と運動量は同時に求められないことが知られている。これはつまり、固有値が分散して観測されるということだ。こんなことはニュートン力学にはナイ。しかし、固有値を決めないと話にならない。そこで、シュレディンガーの波動方程式というものを用いた(ハイゼンベルクの行列式でも同じなのだが)、波の重ね合わせということが行われる。これは、量子が波動であることから、その波を重ね合わせ(これを状態ベクトルという)もっとも波動の高い波(分散している固有値が多く観測される部分)を確率的に求め、そこに量子が存在するということを決める。同じことを「役」にもどす。いくつもの固有値としての「役」が在る。演技者Aはその中で、もっとも自身が演じるに適していると思われる固有値としてのハムレットを選ぶ。これは、演技者Aと、ハムレットという波の重ね合わせと考えてイイ。この波の重ね合わせで、もっとも波の高い部分を演技者Aは選択するワケだ。ここで、演技者Aはハムレットを実体化するのだが、演技者Aとしての現実は終わっている。実体化されたものは「役」ハムレット、だ。おそらく錯誤と疑問はここに生ずる。波の重ね合わせは状態ベクトルなのだから、実体化されたハムレットを演技者Aと戯曲から読み取ったイメージのハムレットのベクトル合成と解してもいいのではないかという考えだ。これはSLOFT/Nで、ひじょうに洞察力に長けているものからも質問を受けた。しかし、舞台の上にあるのは、実体化した演技者Aのイメージのハムレットであって、演技者Aとイメージのハムレットのベクトル合成ではナイ。なぜなら、すでに演技者Aは、そのイメージを実体化しているのだから、現実の演技者Aが同時に舞台の上に存在することは出来ないからだ。舞台の上のハムレットは、演技者Aのイメージが実体化した「幻想(観念)としての身体」ということになる。では、このとき、演技者Aの現実はどうなっているのかというと、対自的に、実体化したハムレットを観る視線になっているのだが、これは、演技者Aの意識がAを抜け出して外部にあるということではナイ。
とりあえずは、以上のように考えておいていいのだが、ほんとうは、密度行列を用いないと、この詳細は解説出来ない。つまり、量子が1個の場合(演技者Aは一人なのだから)の、ハムレットという「役」との行列式だ。これは、本論にゆずるが、ハムレットの「役」と演技者Aが同時に舞台上に在ることが出来ないことは、写像の理論からも説明出来る。こういった観点も、本論で解説するつもりだ。

2012年6月17日 (日)

うりんこ有志・レクチャー録

古屋の職能劇団『うりんこ』のうちださんの企画で、16時~18時の二時間、演劇論のレクチャー。うちださんは、かの『ヴァイアス』(私がもっとも愛する、avecビーズのrepertory)にも、過去出演してもらっていて、このブログの読者でもある。
前説の殆どはテキヤの話。これはサービスのようなもので、本論の演劇論に入る。ほんとうは、このようなものは現場を営む人々には必要なものではナイ。つまり、なくても、知らなくても支障がナイ。しかし、演劇論としてレクチャーする場合は、やらねばしょうがナイところ。SLOFT/Nのワークショップ「えんげきの『え』」とどうように「演技とは何ですか」「演じるとは何ですか」というもっとも素朴な問いかけから始める。答がどのようなものであろうと、そのものの演技能力とは関係がナイ。というか、答そのものはどうでもイイのだ。ここからレクチャーに入りますよの入り口だ。ただ、SLOFT/Nと同じように、どうしても答えるがわは抽象的な答えを提出する。単純そぼくに、いつもやってることを答えればイイのだ。「演技とは日常です」というような答もあったが、それでもイイ。職業でやっているという自負なんだから、それでイイ。いっそ「私たちの仕事です」とでもいえば、もっとよかったろうけど。
ともかくも、SLOFT/Nにおける進行どおりに、演技の構造をレクチャーしていく。さて、残り10分くらいのところで、おそらく、と予想したごとくの[?](question)が入る。フレーズする。ここは、SLOFT/Nのときは、さほど大きくはなかったが、殆ど毎日、仕事として演劇を営為しているものにとっては、身の置き所として納得がいかないところだ。
つまり、「演技者の現実の私は、戯曲を通過する際に終わっていて、私-演技者の現実は、[視線・視点・視座]として、心的領域に移行する」というところだ。具体的にいえば、舞台の上に在るのは、役という実体であって、演技者の現実はそこにはナイということだ。『ロミオとジュリェット』のロミオを演じている場合、そこにあるのは「役」としてのロミオであって、演技者はこれと「了解」「関係」しているだけなのだが、私の演劇論としては、ここを理解してもらわないと、舞台の上の身体が「幻想(観念)としての身体」だという部分へとつながらない。しかしながら、前記の理由において、「了解」と「関係」の仕方が、舞台には演技者の身体が在るために、一挙に心的領域という部分(視線・視点・視座)までに移行するのは経験的に理解することが困難だということは、私としてもよくワカル。
これは、ワン・プロット、私がレクチャーの順序だての部分を飛ばしたために生じたフリーズ、[?]だ。SLOFT/Nの場合も、このワン・プロットは飛ばして、それで特に大きな動揺はなかったのだが、演劇を職業としている人々にとっては、入れるべきだったろう。なぜなら、演劇を生活の要綱として生きている人々にとっては、舞台の上の身体としての[私]を、そう簡単に舞台の上から、消すことは納得が出来ないだろうからだ。そのような反省を含めて、とはいえ、いいたいことはたいていいえたと、思う。
次ぎにもう一回あるとして、早ければ9月の下旬あたり以降に、出来ますね、と、うちださんと、一言ふた言、いいつつ雨の中を帰路につく。飯代だけでイイといっておいたのだが、牛丼ではなく、中華のコースが食える飯代を頂戴して、さらに、シングルモルトのスコッチを頂き、帰ってからシャワーして、すぐに飲む。これが美味い。
イイ仕事をして、美味い酒を飲む。充分、充分。

2012年6月10日 (日)

フクシマ以降

この国はフクシマ以降、被災者というコトバをつくって、被災者とそうでナイものがいるかのように、まるでゴミの分別作業のようなことをやってのけた。同じように被災地というコトバをつくって、被災したある地域が存在するかのように脳裏に地図をつくった。被災地はこの日本全土だということが、そのとき、自分たちの周囲から遠い、対岸の火事、蚊帳の外になった。かつて被爆者というものがあり、それはいまもあるのだが、そうでナイものがあるかのように、他人のことは他人、ともかく、絆とだけいっていようよと結託だけはして、テレビから流れるオウム事件の手配犯の性生活とやらに、売るものがあってよかったんじゃないのと、ハイボールを傾けている、そのさなか、ほんの一部の真実を背負うものが、骨身を削って苦しい闘いをつづけている。「原発の再稼働、必要ならやればいいじゃないですか。私は私に出来ることだけしか出来ャしねえんだから」と、目を伏せつつ。
この世の中に完全なものなどナイ。それは完全にナイ。また万能もナイ。神の全知全能を崩すのには、数学の不可能パズルを一つ、たとえば、ケーニヒスベルクの七つの橋問題を差し出せばすむことだ。その解の不可能は、天才数学者レオンハルト・オイラーによって証明されている。神もまた、この橋をルールの上で渡り切ることは不可能なのだ。
スペース・シャトルが飛行するさい、離陸に至るまで綿密な部品の点検が行われる。部品の精度が99,9999%であっても、打ち上げは延期される。部品の数がそれを上回っているので、何処かで不備が出る。従って部品の精度は100%が要求される。それでも、シャトルは、事故を起こして落下した。
原発に100%の完全な部品を用いることが出来たとする。原発自体には問題はナイ。再稼働しても不具合はナイ。どの原発もその程度の完全さは持っている。はずだった。フクシマまでは。しかし、原発はフクシマの事故から、「フクシマ以降」に移った。再稼働する原発の社員、現場職員は、「少なくとも」フクシマ以降を稼働していることについて、万全の責務でこれを真っ当するだろう。そう信じなければ話にならない。稼働させているのも私たちと同じ日本国民なのだから。日本国民、そういう語彙の響きが気に食わないのなら、国民、人間でもイイ。ところで、数千個あるかも知れないという、直系100メートル前後の隕石が、原発(を直撃しなくとも)の付近、海でも山でも、その町のどこかにでも落ちたとする。マグニチュード20前後(1あがるたびに、30倍になる)の地震に耐えられる原発はナイ。そんなSFのような、バカバカしい、と一笑に付すのは簡単だ。しかしツングースにも落ちたし、恐竜絶滅の最有力の原因が隕石だ。計算の確率では、数百年に一個は落ちる。直径10メートル以内のものなら、毎日落ちている。こいつは大気圏で燃え尽きて流星になるが。さて、こういう不慮の事故まで「想定」して、原発を稼働させるか。こんなことは「想定」出来ないが、科学者、マスコミ、そうしてもっとも重要な政府の対応は、逐一、私たちは「想定」ではなくその「実態」を観てきた。原発を再稼働させるかどうかを論議する前に、それらの無能さを議論すべきところからしか、「フクシマ以降」ははじまらないのではないか。

2012年6月 9日 (土)

SLOFT/N稽古日誌・5

情況(シチュエーション)を演技に取り入れる(含める)ことがなければ、役作りなどやっても意味がナイ、と述べたので、この日、早速、稽古の前に、演出担当から「では、情況を整理して、統一しておきたいと思います」という事柄が述べられた。「まず、タクラマカン沙漠の昼間の温度ですが、30度くらいだそうです。夜は、かなり下がるとしかナイので、どうしましょう、何度くらいにしましょう。3度、4度かな」。ここで、何度にするかが検討された。要するに演出担当を含め、このひとたちは、「情況」というものと「情報」というものの区別が出来ていない、というか、「情況」を場所の環境と勘違いしているのだ。私のいう情況は、劇の情況だ。今回はミステリ劇なので、そうしたミステリ劇としての情況だということはいうまでもナイ。このトンチンカンでアンポンタンについては、演出担当に詳細にメールを送っておいた。演出担当は、当日も心理的な演技指導を繰り返す。私の考えでは、役の心理などというものは、まったくどうでもイイことだ。「一度、心理を模索する演技指導から離れなさい」とも書き送った。「いつまでたっても、芝居がミステリになってきません」とも苦言を述べた。これは演出担当の能力の問題ではナイような気がする。単に、「人間というものを知らない」「ミステリというものを知らない」という無知からきている。役の心理というものは、演出担当の側にありさへすれば足りる。演出担当のレベルに合わそうと腐心している役者にとっては、ただの迷惑でしかない。こう動け、こう語れと、ダメだし(のようなもの)が出される。しかし、それによってどう作用(効果)に変化が起こるのかを演出担当は、明確にしない。また、役者も、何がどう変わったのかがワカラナイ。あくまで演出担当自身がやるなら、という基準しかナイからだ。役者はまあ、なんとなく、どっちでもいいかというふうに従っている。おそらくこういう現象(事象・事態)は、この現場だけではなく、さまざまな演劇現場(名古屋のといってもイイ)で起きているだろう。とはいえ、そんなことに暗澹としている時間の余裕は、もう私にはナイ。私は私のプランどおりのことだけをやるのみだ。

2012年6月 7日 (木)

SLOFT/N稽古日誌・4

たとえば、力士(相撲取り)が、その日は一日中四股を踏まされるとする。野球選手の投手が一日中ランニングをやらされるとする。剣道で上段からの一挙動の素振りをやらされるとする。彼らは何の「稽古」をしているのか。四股を踏む場合も、投手のランニングも、剣道の素振りも、足腰の鍛練、つまり「土台」をつくっている稽古だ。彼らはそれを知っている。
昨日、一通りの読み合わせが頭から最後まで終わったので、私は演出担当に「ところで、今日は何の稽古をしたんですか」と訊ねてみた。こういうアタリマエのことを訊くと、けっこう場がフリーズする。「役者のみなさんにも、同じ質問をしてもいいんです。みなさん、今日は何の稽古をしたんですか」。虚をつかれたというふうに沈黙が訪れる。こういうことを素通りしている「稽古」時間が意外に演劇現場では多いのだ。SLOFT/Nは演劇塾だから、こんなことも訊ねてみる。ふつう、私は、自分が劇団に演出する場合、そういうことはいわない。面倒だからだ。しかし、塾だから、そういうことも問題として挙げねばならない。「演出は、今日の稽古はこれこれをやってみます」ということを稽古の初めに述べねばならない。で、稽古の終わったアト、その成果について述べねばならない。で、なければ、稽古の意味がナイ。稽古は「反復」だ。では、何故「反復」するのだろう。こんなことは、もし、演劇を学ぼうとするのであれば、考えねばならないことだ。チェッたかが芝居に七面倒くさい、なら、それでもイイのだ。それでもイイが、客から銭をとって、何かをみせるということについて、ある程度は真摯にならねばならないし、稽古時間を毎日の自身の所有時間から削り取られて、なおかつ、guaranteeもナシに舞台に立つということがどういうことなのかも、同時に考えねばならない。
演出者はどうしても、演技指導をしようとする。それがもっとも簡単だからだ。しかし、演技指導というのは突き詰めれば、役者の演技に対する批評でしかナイ。その批評は限界(制限)がある。演出者自らが演じられる範囲に応じて、という限界(制限)だ。だから、演出者は、自分が出来ない(及ばない)ものに対しては演出(演技指導)が出来ない。とすると、その演目は、演出者の演技術の限界をみせるだけのものになる。
役者は役作りをしようとする。当初、役作りをする場合は(もし、するのなら)シチュエーションをその中に含めること、あるいはシチュエーションに自身を放り投げること。を注意したが、それには、みなさん不慣れなようで、せりふは、その役者の物理的な身体以上のものをもち得ない。それは日常の身体だ。演劇の身体は日常の身体とは違って、観念的(幻想領域)のものだ。つまり、身体は拡張されて演じられる劇のシチュエーションすべてをその身体としなければならない。
役者はせりふを語る。いまのところ、役者のみなさんの、せりふのベクトルが曖昧だ。たった一行のせりふにも、さまざまなベクトルが含まれる。助詞ひとつをとっても、「は」「が」「も」「に」の振幅の向きと力は、意味を違える。ここに戯曲文学の持つ特異な身体の美学というのがある。また、やっていることがつまらなければ、何の価値もナイ。にんげん、遊んでいるときがもっとも面白い。
演劇もまた「美学と遊び」だ。表現である以上、そうとしかいいようはナイ。

2012年6月 6日 (水)

SLOFT/N稽古日誌・3

『デザートはあなたと』の稽古は、ふつうに進んでいる。ふつうにというのがどういうことなのか、特に支障なくと解していただければイイ。流山児のように大本営発表みたいにはいかない。「どこにもナイ演劇」などというものを創っているワケでもなく、劇団でもなく、これはあくまで演劇塾としての稽古だから、演出は演出担当が、演技者は演技者担当がやっているというべきだろう。私は、その指導のようなものをすべきなのだろうが、そういうことは私の最も苦手で不得手とするところなので、補佐的に働いているだけだ。演出担当には、それだけいわれるならば投げ出したくなるようなキビシイmailを送って、てめえはここがまるでダメだとしかいってない。役者たちは、いい素材だと思う。ただ、その素材をどうしたらいいのかという、演劇に対する処方箋がナイだけだ。私にしても、そんな処方箋など作っている余裕もナイが、微力だが、ヒントになる程度のことは述べている。私に出来ることは、せいぜい、稽古の進行に随伴しながら、台本の編集をやれることくらいだ。
稽古場は戦火の空襲を免れた下町だから、さまざまに、私たちの営為を応援して頂いている。駐車場を無料で貸して頂くのは、ひじょうにありがたい。すぐ隣は魚屋さんで、惣菜も扱ってらして、その日売れ残ったいなり寿司や、穴子寿司を、「残りものだけど、食べてよ」と、差し入れのように毎日持ってきてくださる。
座員たちは、喜んで、これに感謝して、それを食す。
ただ、私は、どうしても屈託していて、それを口にはしない。もっとも、食事はすましてから稽古に出向くので、空腹ではナイというのがまずの理由だが、私には、偏屈なる固有の倫理があって、借りは作りたくナイのだ。
そこで、太宰治の『たずねびと』(新潮文庫・『グッドバイ』所収)を強く思い起こしてしまう。太宰治の小説の特徴は、書き出しの見事さと、最後の数行のインパクトだ。例にあげた『たずねびと』の最後の二行も、読んだ当時、私を震撼、驚愕させたものだ。
つまらぬ意地だが、贈与交換は、交換でなければ、価値を持たない。隣家の魚屋さんにはなんの悪気もナイ。その悪気のなさこそ、私がもっとも虞れるものだ。

2012年6月 1日 (金)

SLOFT/N稽古日誌・2

べつにサボっていたわけではナイが、暮らしのほうの諸事情から、多忙で、伊丹の塾をブラックアウトしてしまったり(まことに申し訳ない)、どうも落ち着いて稽古日誌など書いている場合ではなかったということだ。
やっと猫が飼えるマンションがみつかって(ここも小犬のみだったのを大家さんに譲歩して頂いた)、7月の下旬には、このスラムアパートを出ることにした。とはいえ、9月にはアイホールでの『この恋や・・』の演出があるので、実際に猫が飼えるのは10月あたりからになるが、それでも、まさに念願の、というところだ。
男性が病気になったとき、「具合でもわるいの、大丈夫、横になる」という女性などいないということを具体知するのに60年かかった。「具合ワルイの。なによもう、面倒臭いわね。こんなときに」こういう実体しか、残念ながら私は女性というものの実相を知らない。元妻さん(前妻さんの前の妻)との生活のとき、熱を出して寝込んでいる私の布団の横に、どうように、沿うように寝てくれたのは猫だけで、元妻さんは、私が寝込んでいるあいだ、猫の世話すらしなかったことだけは、未だに粘着質の私の恨みだ。
SLOFT/Nの『デザートはあなたと』(以下「デザあな」と略す)の稽古は、てんぷくプロのご好意もあって、清潔で静かな稽古場で、着々と進んでいる。『デザあな』は成果を発表する公演ではなく、それ自体が学習なので、演技者は演技者の、演出志望のものには演出を学んでもらっている。私は総体的にそれを紡いでいるだけだ。ここまでの感想をいうと、私と彼らを隔てているものはgeneration gapというものではなく、culture gapというふうにしか呼べないものだ。たとえば、演劇のリアリズムひとつとっても、それをどの程度、現実とのrealと分けているのかが、よくワカラナイ。私は演出担当にいう。「ガラスのコップをコンクリートの床に落として、そのコップが何故砕けないナイのかを合理的に物語るのが、演劇のリアリズムです」。演技者には「役作りというものは、常に、状況(situation)を取り込まない限り、やってもしょうがナイ。まず、その劇状況に自分を放り込まないといけません」。彼らは誰一人として、ゴダールやブニュエルを知らない。従って当方としては、「たとえばゴダールなら」とかいうのは禁句になる。演出担当に対する重要ダメだしへの注意は「あなたはこのせりふをどんな気持ちで語ってるの」という(いわゆるインタビュー・タイプの)問いかけをしてはならない。何故なら、演技者はホンを理屈で理解してそれ(理性)を否定したカタチ(変換したカタチ)で感性としてせりふを語っているのだから、ホンの理解の理屈を問われているのか、コトバの感性度を問われているのか、混乱するだけだからだ。こういう場合、演出は「私は〇〇だと思うのだけど」と、まず、自身の考えを述べてからにしなければならない。でないと、それは、詰問や尋問と大差ナイ。耳にするせりふのイメージというのがチガウのなら、何度もテイクをとればすむことだ。要するに、演出は、演技者と「対・談」をしなければならない。その場合、演出担当、演技者の両者が苦吟するのは、いつもこの瞬間だ。「思い」もコトバに変換されなければ相互に通じないからだ。演劇(戯曲文学)は、本来的には「幻想」であったものが、実体として入れ替わる(身体として舞台に立つ)ことが出来るというところまで言語表現が進化してから産まれたものだ。その現場作業が困難を極めるのは、演出、演技者それぞれの技量のレベルの問題ではナイ。演劇など、いまだに黎明期にあるとしかいいようがナイのがその根拠だ。

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