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2012年5月 2日 (水)

tea break 『内角の和』を御馳走になる・6

(つづき)しかしながら、だ。観客は、スズキ氏の舞台に何を観にいくのか。いや、当時といってもいいが、何を観にいったのか。それは自身の「内在」するコトバを聞きにいったのだ。ここに、スズキ氏の幻想する俳優の身体と、観客の相互関係における演劇が創られる。観客は、劇場に一歩足を踏み入れるまでは、サラリーマンであり、居酒屋の女将であり、不動産屋の社長であり、学生であり、専業主婦であり、フーテンであり、前科者であるかも知れない。しかし、その各々には、「内在」したコトバが「鬱積」しているのだ。語り得ぬものには沈黙をなどというのは、演劇においては通用しないと私が何度も書いてきたのは、このことをいう。おそらくスズキ氏が、観客を演劇創造の片翼と見做していたのは、そんなところに因をもつ。だってそうじゃないか。観客の至高の喜びは「それ、それよ、そのせりふが聞きたかったの」じゃないのか。こういうことは、演出が戯曲の解釈だからダメだの、演技が演出への奉仕だのとかなんとかヌカシながら、自分は自分の舞台で何か高尚な演出の試みでもしているかのような妄想を持っているトンチキには、逆立ちしてもワカラヌことだ。
/かつて宇野重吉氏は「新劇もようやく演技スタイルが確立されてきこ」というような発言をしたことがある。(略)それは千田是也氏の「近代劇を克服して、社会主義演劇、共産主義演劇へ向かおうとする運動は、今なおつづいている」という発言と、符節を合わすようなもきであった//「共産主義へ向かおうとする運動」は論外としても、「演技スタイルが確立した」とは、いったいどういうことであろうかと、思わぬにはいかない。おそらく新劇流のあてぶり演技の種類が、それなりに整理・保存されだしたという程度のことであろう。(略)私は新劇の新劇たる所以は、能や歌舞伎とは異なり、伝承可能な演技様式、すなわち、可視的な形で語られ、共有されるスタイルなどというものは所有しないところにあると思っているものである。/(同)では、「形」「型」とは何だろうか。それはおそらく「抽象」と解していいように思われる。すると、形や型でナイほう、つまり心象の表出というのは「具象」ということがいえる。ただし、この場合の「具象」は具体的なというよりも、その「個々人」のといったほうがワカリヤスイ。だから、抽象は継承出来るが、具象は継承不可能なのだ。スタニスラフスキーは、なんとか優れた具象を抽象に置き換えたかった。それが可能だと思ったところにこの真面目な演劇人の悲劇がある。私は当時、新劇の芝居をやってる連中が、「紋切り型」というのを忌み嫌うように排斥するのが、よくワカラナカッタ。やはり、旗本退屈男は、諸羽流正眼崩しでもって構えないと様にならないんじゃないの、でもって、「眉間の傷は天下御免の向こう傷」といわないと面白くもなんともナイのじゃないか。『一本刀土俵入』は、茂兵衛が最後にいう「お蔦さん、10年前に櫛、簪、巾着ぐるみ、意見をもらった姐さんに、これがせめて、見てもらう駒形茂兵衛の、しがねえ姿の土俵入りでござんす」があってこその拍手なんだけどなあ。と、たぶん私はそういうせりふが内在とまではいわないまでも、「自分がいいたかったコトバ-せりふ」だったに違いない。

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