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2012年5月 1日 (火)

tea break 『内角の和』を御馳走になる・3

「舞台上の劇について語るならば、ともあれ舞台という秩序のなかで、自己の内部の幻想を外化する際に不可避なものとして存在する、と自分に思えるものについて語る以外ないだろう。それは言葉であっても、肉体であってもよいが、私にとってはそれらを一回性という場のリズムとして同時に意識化する俳優という存在をおいてほかにない」(『明日の演劇空間』について-書評・尾崎宏次著『明日の演劇空間』)という冒頭だ。こういう文言に出あうと、頭とか目がクラクラするから、という者がいるだろうが、それは、オーケストラの楽譜や、ゲーデルの不完全性定理の数式を目前にしても同じことがいえる。理由は二つある。単純に不慣れなこと。もう一つは、書いているほうが、自身の言語規範(自己表出)の強い領域に引き込んで書いていること。一つめは無視することにして、まず味わっていこう。「舞台という秩序」、これ、もうワカンナイでしょ。「法という秩序」ならワカル。「秩序」の逆は「混沌」だ。この場合の「秩序」は舞台が舞台として機能するように整えられていること、さらに、そこは日常とは一線を画しているということ。「自己の内部の幻想を外化する際に不可避なものとして存在する」は訳すと「私が黙ってイメージするものを、何か可視的なものとするとき、避けられぬもの」。「外化」(可視的に対象化されるもの)が「私にとってはそれらを一回性という場のリズムとして同時に意識化する俳優という存在」。つまり、俳優というのは、一回性という場(舞台)に、リズムという形態をもって、対象化されるもの、だ、ということ。(よけいにワカラン。失礼しました)。ともあれ、スズキ氏の言説には「一回性」「リズム」がこのアトもよく出てくる。当時、この「一回性」というのは、先輩たちもよく用いていたと思うのだが、私にはよくワカランものだった。たしかに演劇は映画とはチガウから、コピーは出来ない。しかし、落語や歌謡も一回性といえば一回性ではないか。もっといえば、戦争も一回性だ。勝ったり負けたり、負けたからナシにしてもう一回とはいかない。それで滅びる国もある。ただ、戦争は現実だ。演劇は虚構なのだから、一回性ということはナイんじゃないかなあと、実はいまでも私はそう思っている。同じ演目でもその日のマチネとソワレでは出来の善し悪しがある。アタリマエだ。その日たまたま生理が早く来て、青息吐息の女優だっているだろう。風邪で声が出なくなった役者もいるだろう。そういう意味の一回性ではなく、もっと表現としての一回性なのだろうが、それなら、一発勝負といったほうがワカリが早い。では何故に一回性なのか。スズキ氏は、それを観客との関係においてと、している。これも後々よく出てくるキーワードだ。スタニスラフスキーが問題にせず、ブレヒトが教育される者、啓蒙される者と見做した観客は、スズキ氏にとっては演劇において欠かすことの出来ないファクターだったと思われる。おそらくこの先見性、というか、コロンブスの玉子の発見は、極めて重要なものだ。観客をどう考えるか、という設問に、論理的に答えられる劇作家、演出者、演技者は、いまなおさほど多くはいないはずだ。それが証拠に、思い出してごらんコオロギよ。ワークショップとやらで、観客について教わったか。ん。どうなの。

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