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2012年5月 1日 (火)

tea break 『内角の和』を御馳走になる・2

スズキ氏と私の演劇に対する関係と了解の違いは、スズキ氏の場合には、「自らの演劇を他の演劇、また、歴史文化においてどう考え、どう実践していくか」であり、私の場合は、「私の一生をムチャクチャにした演劇というものが何なのか、ケジメをつけたい」だ。これは私が私の演劇を負の遺産だと思っているということではナイ。ムチャクチャというのは、かなりオモシロイことだからだ。三流のエロ小説で女がベッドでいう、「私をムチャクチャにしてっ」とおんなじ。従って、スズキ氏のように「自らにとって演劇とは何か」を問おうなどとは、私は微塵も思っていない。私はただ「演劇とは何か」が知りたいだけだ。この点だけは、ハッキリとチガウ。自らにとっての演劇なんぞは、とうにワカッテいることだからだ。そんなことは、もう十二分に了解している。命なんぞいくらでも人生にくれてやれ。昭和の漫才師花菱アチャコの「何がなんやら、もうムチャクチャでごじりゃりますがな」でよろしい。「愛とは、ムチャクチャのことです」「神とはムチャクチャですな」「食っていくということはムチャクチャだ」ということになる。
「歌右衛門にふれながら」では、俳優の奇形性をめぐって、「云々すべき個性とは、むしろ自己の制約への関わり方の方法によって決定されてくる」という命題から、「女形の芸の要点は女を真似るのではなく、男の肉体を殺すのだそうである」として「殺すという以上、対象を措定する意識が個体の裡(引用者:注・この場合の裡-うち-は、内ではなく裏と解す)に発生するわけである」という魅惑的な論理が続く。そうして芳沢あやめ(引用者:注・「あやめ草」の作者、元禄時代の名女形。「あやめ草」を収録した『役者論語』は極めてオモシロイ)というヒジョウに極端な役者の演技の在り方に至る。私たちは運良く神戸浩という希なるハンディを持った演技者に触れることによって、身体というものを考えなおすきっかけを与えられた。というのは、彼の演技そのものというよりも、彼が役者を志して、さまざまな劇団に入団を申し込み、すべて「そのカラダでは無理だ」と断られた現実から、演技論というものは、五体満足というふうにいわれる者(そんなものがどんなものだか知らんけど)にのみ通用せしめるものでは、まさに論理のほうにこそ欠陥があると、知らしめられたことだ。翻って俯瞰すれば、この、いま、云々出来る個性とやらを持った演技者は存在するのだろうか。肉体それ自体としてはブロイラー化が進み、俳優というのは、身体で身体を観念化する営為をさらに身体で識っていなければならないという、真っ当な作業すら自覚せぬまま、まず、食い扶持を、就職先を決めなければ、演劇などやってはおれぬという、なんとまあ正しい生き方を模索して、それならそれで演劇なんざ、やらなきゃイイのに、俳優のふりがしてみたい、お芝居をやりながら友達が増やせたら、という真逆の閉じ籠もり生活をしている連中は、すでに人生のほうから棒にふられてしまっているという受動的虚無負債者でしかない。この、いま、積極的逃避としての反抗の演劇は、さがすほどに逃げる愛のようものだ。てのは、どうかな。(本歌は中島みゆき『砂の船』の一節)

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