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2012年5月 2日 (水)

tea break 『内角の和』を御馳走になる・5

やや長い引用になる。
/もし語られるべき演劇があるとしたら、精神の荒野からはるばると異形をしてやってくるものであり、いっさいの対象化に逆らうような本質を伴ってくるのだと思わないわけにはいかない。私にとって演劇行為とは、その純粋な形において、裏切られた生をいきようとするところのものであり、私自身の人間的な言葉の創造にほかならない。そしてこの言葉とは、常日頃目にするような、活字として印刷された言葉ではなく、閉じられた状況のなかで、それに対処する意識的所作としての言葉であり、過去の認識活動の総体としての既成の言語系の網の目をくぐりぬけてくるような言葉にほかならない。/(「演技と状況」-未知なる俳優への書簡-)
スズキ氏はここで、劇言語の[内在性]というものが述べたいのだと思う。というか、劇言語の内在性を問わずして、演劇など語れはしないということがいいたいのだ。この「演技と状況」では、スズキ氏の演劇に対する出自が語られる。私が最初に、スズキ氏の演劇を実存演劇(実存主義演劇ではナイ)と称したのは、この辺りにその根拠を置いている。このエッセーはこの書籍の中に収録された小論の中でも、かなりの上物で、すごみすら感じさせるものだ。「あれか、これか」「あれも、これも」「あれでもなく、これでもない」と、私たちはキェルケゴールに発し、フッサールの現象学から、ハイデガーの現存在に至る道程を、ふと思い出し、演劇は40年前に、こんなふうに語れる存在だったのだと、あたかもフーコーの知の考古学、ディスクールやエピステーメによって示された地層を垣間見せられる。
劇言語の内在性、語り得ぬものには沈黙をと、ウィトゲンシュタインによって、おやまぁといってる間に蓋をされた「沈黙」は、表出の源であるのだと、何故、いまの演劇人(というのがいるのなら)は、ウィトゲンシュタインの言語論に討って出なかったのだろう。インテリはみんな、そっち向けそっち、したもんなあ。そりゃねえだろ、と、いっただけ損したな。とはいうものの、阿呆の一つ覚えのごとく、ハイデガーでようワカッタのは「頽落」だけで、なぜそれだけがといえば、そこはチガウんじゃないの、と、恐れ多くも首肯出来なかったからで、いまその「頽落」を近所のfood terraceでゴールデン・ウィークを満喫しつつ飯を食う、年配者にぶつけてみれば、「そんなものはね、あんた、人生のいろはというものだよ」と逆に諭されるのがオチだし、若者に論じてみれば、「そんなの、アッタリマエのことじゃナイ。なんでアカンのよ」という答が返ってくるのが順当だろう。
/「演劇とは何か」などと語らずに「自分にとって演劇とは何であるか」を語ろうではないか。/(同)と、これについては、私自身のことはいった。この問いかけをぶつけるに、「そんなことがいえるだけ贅沢よ。私なんか、いまは親の介護で手一杯、芝居なんかより、長生きとは何かよ」という答を偶然に今日、二人の女性の口から聞いた。長生きなどするべからず。老兵は死なず去りゆくのみ。去就、有終の美を思え。楽隠居など、犬に食われればいいのだ。

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