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2012年5月 7日 (月)

tea break 『内角の和』を御馳走になる・11

では、スズキ氏が要望していた「一回性の演技を生きる俳優」とは、具体的にはどういう演技者のことをいうのだろうか(白石加代子は括弧に括っておくことにして)。それが、この著書のラストにおいて白眉を飾るエッセー「演技と思想」に如実に物語られている。まず、「一回性」という語彙、意味、概念、について誤解があるといけないので(私自身が誤解しているといけないので)こちとらなりに、未熟に定義しておくと、これは公演が一回限りのものでしかナイことをいうワケではナイ。スズキ氏の早稲田小劇場は小さなアトリエであったために、満員で入りきれない観客のために、即日追加公演が組まれることもままあったらしい。長尺の演目ではナイので、それは可能だったと思われる。そこで、これまでのエッセーから汲み取ると、観客の相互関係において、それは「一回性」の演劇であり、といって役者のいわゆる通俗的なアドリブ (ad lib)ではなく、インプロビゼーション(Improvisation)としての直観性に支えられた即興性と考えて、さほど的を遠く離れていることはナイと思う。
「演技と思想」では、阿部貞について語られる。スズキ氏は偶然『週刊現代』で目にした阿部貞の記事から、彼女に興味を持って彼女のいわゆる「阿部貞事件」の予審調書が収録されている本を手に入れ、これを読み/突風にたたきつけられたような衝撃をうけた/(「演技と思想」)のだ。この調書は織田作も小説の資料にしているが、貞のモノローグ、独り語りになっている。その語りの引用がかなりの長さでつづく。間に内村剛介の阿部貞評や、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の一節が挟み込まれて、さらに長い阿部貞のモノローグの引用があるのだが、スズキ氏の一言を抜き出すと/彼女のことばは、質問に答えながらも、あたかも話す人とそれについて話されるものとの関係しかない場で、発せられたもののようである。はじめはコミュニケーションを意図しながらも、話すうちにことばは自分の意識だけにしか反響しないようになり、ついにはことばによってのりうつられ、憑かれてしまったかのような印象をあたえられるところがある。/ここで、私たちは、阿部貞事件における阿部貞の調書告白という特異なものを、その特異さゆえにとりあげるべきではナイ。スズキ氏は、阿部貞の調書を「読み」=「視覚的」に捉えながら、ひとつの「語り」として「聞いている」=「聴覚化」している。そうして、それをさらに阿部貞という「像」に「視覚化」しているのだ。このベクトルの変容が、スズキ氏を通過する有り様は、そのまま、スズキ氏が俳優に対して求める演技の通過と等価だと思える。/では阿部貞はなぜ、私にとってもっとも言語化が困難だと思われる私的な体験を、このようなことば=語り口のうちに表出することができたのであろうか。/(同)、それについて、スズキ氏は、肉体のことば、身体知覚と不可分に結びついたリズムとしてのことば、あるいはリビドーに裏づけられたセクシュアルな身体のリズム、語ることじたいが身体的快感として持続していく、てなふうに理屈を述べるのだが、それはそう聞こえたのだから、そうなのだろうとしか、こちとらにはいいようはナイ。ということで、/即興は状況においての必然性である。即興とは、もっとも充実した創造的意識のなかで、もっとも深い身体的リズムの記憶によって導きだされてくる、自由な生命力そのものなのだ。/(同)、とした上で、これを/自己が自己に憑かれるような狂いとしてしか体験しえぬ身体のリズムで(略)期せずして彼女の一回性の演技の貴重な記録になりえている/と結んでいるところから推測するに、スズキ氏が要望せし、演技、俳優というものが如何なるものかは、察しがつくことになる。

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