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2012年5月 3日 (木)

tea break 『内角の和』を御馳走になる・8

/どうして日本の演出家は、ひとたび外国へ行くと、まるで自分だけが新しい演劇を体得してきたというような猿真似を演ずるのであろうか。/(同)これは、このアトのルコック紹介の記事を雑誌『新劇』で読んだというところにつづくのだが、スズキ氏が貶すわりには、現在もルコック・システムとして、一部に人気があるらしい。私もある打ち上げの席で柄本明さんと同席した際、参席者のひとりが、柄本さんに「ルコック・システムってご存知ですか」てな質問をしていたのを記憶している。あまり詳しく知らないことを述べるのもよくないが、どうも、スタニスラフスキー・システムの継承のようだ(かつ、ストラスバーグのメソッドには否定的だ)。私は、どんなシステムであれ、出会い、きっかけ、巡り合わせのようなもので、それは、偉いひとの名のあるシステムでなくとも、高校の演劇部の顧問とのあいだにも起きることで、ひとことでいいきれば、自らがかくなる身体であったか、と気づけばイイことだし、そうでなければ、みなダメだし、おそらくそこまでのことだと考えている。
/われわれの眼は、視野全体から相対的に変化しない形態を切り取り、これが形を変えないで位置だけを変えると見做す習慣を身につけてしまっている/(同)これは、形、型、あるいはその延長に形状化した心情を取り入れてしまっている新劇に対する批判だが、先述したように、形、型はある「抽象」としてしか現れない。この「抽象」を、古典芸能、伝統演劇から、いきなり「抽象」として学んでもダメだということが、スズキ氏の主張だ。/もし古典芸能から学ぶなら、様式の初源へとたちもどり、それらを創出してきた肉体の意識と、われわれの肉体の意識の質的な差異を見きわめるところから始める以外ないのである。/(同)/演劇という舞台作品において、部分の総和が全体でないように、俳優は部分などというものではない。俳優それ自体のなかに全体性が投影されている/(同)この辺りのことは、私の続・恋愛的演劇論(実践編)にもやや詳しく同義のことが触れられているので、そちらを参照されたい。ここで簡単に注釈しておけば、俳優はパーツであっても、フラクタルなものだし、ホログラムなものだ。
ところで、前説のつづきのようになるが、私は白石加代子さんとは、偶然、不忍池での唐さんの公演(状況劇場)で隣合わせに座ったことがある。その当時、私は白石さんのことは演劇雑誌の写真の極めてオトロチイ容姿しか知らず、この女性が、どんなふうに唐さんの芝居を観るのだろうかということのほうに半ば気持ちが動いていた。で、やっぱり笑うのだ。観客がドッと大笑いするところでは、お笑いになる。しかも、上品にだ。そりゃあ、一観客だからな。
演劇のワークショップや、演劇学校、養成所は、この、いま、枯れ木に花の賑わいだ。一方ではスズキ氏が「一回性」と称し、唐さんが特権的肉体と呼んだ、俳優、役者は数少なくなっているようにみえる。しかし、そういう俳優、役者、演技者は、ちゃんと、未だいるところにはいるのだ。絶滅希種のごとくにではあるが。

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