無料ブログはココログ

« tea break 『内角の和』を御馳走になる・9 | トップページ | tea break 『内角の和』を御馳走になる・11 »

2012年5月 6日 (日)

tea break 『内角の和』を御馳走になる・10

身体というものを、観客との相互関係に依る時間の流れの中で捉えようとすれば、イマージュとしての身体というのは、身体が身体を流動的な観念として捉えているという構造になる。つまり、舞台の時間の流れに準じてイマージュされた身体は変容していかねばならない。では、実体としての身体は何処に在るのか。「非現実化している自己(これは俳優からみても、観客から観てもイマージュとしての身体に相当する-引用者:注)を現在性(舞台の時間の流れにおける現時点-引用者:注)としてとり戻す」とは具体的にどういう営為をいうのだろうか。/たとえばここに「好きだ」という台詞があるとしよう。現今、俳優がこういう台詞を言おうとするときに、いったいどういう手続きをとっているのだろうか。おおむね彼らは、音声的な面から近づくのがつねである。/(「側面的演技考」)、この営為はスズキ氏によって次のように否定される。/実在の全体から、舞台にとって効果的に利用できる可視的、可聴的な外在化された形を抽出し、空間的に移動させることに専念してきた/というふうに。(訳してみるならば、現実の世界から、舞台という非日常の世界にも利用出来るような、視えたり聴こえたりにすること、になる)。しかし、私は、「好きだ」というせりふの発語を、そのように切り捨てるのは、きわめて図式的に過ぎないように思う。/「好きだ」という台詞を発する主体が、どのような状態にあるときに、演技として生きたと言い得るのであろうか。/と設問はつづき、/ひとつの台詞が音声表出される以前のある状態、身体的知覚それ自体が意味を放射するような時を演技と呼ぶ以外ないと思われる。音声表出以前に、前言語状態ともいうべき身体知覚があるのであり、演技とは既知としてすでに構成されてしまった言語、表現が完了した言語からその根源の沈黙ともいうべき前言語状態を、身体的に生きようと担うものなのである。/ここで述べられている「身体的知覚」は「心的現象」に近いものだ。そうすると、演技を「生きる」身体は二重構造として、舞台に在らねばならない。イマージュの身体としてと、身体的知覚を営む身体として。ここでも、実体としての身体は置き去りにされたままだということになる。観念化された身体と、心的現象として捉えられた身体がそこに在るだけで、発語以前(前言語状態)の身体が身体的に生きるということが演技を生きることだとすると、スズキ氏がここで呼ぶ「身体的」なものへと移行する、つまり、実体としての身体が発語する過程がすっぽり抜け落ちていることになる。「前言語状態を、身体的に生きようと担うもの」という、前言語状態から身体的というものに至るプロセスだ。いったい何が「生きようと」しているのだろうか。もし、ここでいわれている「身体的なもの」というものが、イマージュとしての身体を示すなら、そういう身体というのは、ふだん私たちが持ち合わせている身体と寸分の違いもナイものだ。私たちは「身体」だが、「身体的」と称するに及んでは、自らの身体をいつも観念化(イマージュ)している。つまり、私たちもまた「身体的」な身体で生きている。そうすると、舞台における俳優の身体は、論理的には日常の身体と同一といっていいということになってしまう。スズキ氏は、そういいたいのだろうか。私たちもまた、日常的に、言語を内在として所有している。それを前言語状態といっても支障はナイ。音声表出以前に言語を(スズキ氏のコトバをかりれば)身体知覚しているのは、べつに俳優の身体でなくてはならない理由は何もナイ。だが、私たちは日常(舞台ではナイところ)で演技をしているのではナイ。私が考えるに、舞台にある身体というのはいったん「戯曲を通過して」イマージュされ、観念化されて否定された身体が、舞台に立つときに、さらに否定(逆転)されて「表現された自己=役」となった実体だ。つまり、イマージュも前言語状態も、役者にとっては舞台に立つための戯曲を通過する段階で終わっている。だから、いったん舞台に登場した役者は、その舞台における「現在形」だ。役者はどのような観客との相互関係における時間の流れに対しても常に、その時点を現在として舞台に立っている。「好きだ」というせりふは、音声表出されなければ、演技にはならない。内在する表出以前の沈黙の言語を外在化したものが、音声表出としてのせりふであるということはいうまでもナイことだ。「好きだ」というせりふは、演技者がそのせりふとどう「関係」し、如何に「了解」するかという問題になる。そうして、それが音声表出というせりふである以上、演技者はそれを聴覚としての像として捉えるのが最も自然な出発点だ。

« tea break 『内角の和』を御馳走になる・9 | トップページ | tea break 『内角の和』を御馳走になる・11 »

演劇」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/558792/54643618

この記事へのトラックバック一覧です: tea break 『内角の和』を御馳走になる・10:

« tea break 『内角の和』を御馳走になる・9 | トップページ | tea break 『内角の和』を御馳走になる・11 »