tea break 『内角の和』を御馳走になる・9
/演技というものは、完結した自己意識によって行われるものでなく、俳優の行為と、それに臨場する観客の行為と、ふたつの項をもち(略)そのときの俳優の意識はベルグソン的にいえば、知覚と記憶との間を重層的に揺れ動き、相互浸透しつつ、連続的に継起する質的多様性としていきられるものだ/(同)
スズキ氏は、観客と俳優との関係を「動いている時間」で捉えたいのだ。「知覚と記憶との間を重層的に揺れ動く」というのは、俳優の身体が現在と過去をパラレルに生きていることを指している。ベルグソンの引用は『物質と記憶』からだが、そこで、ベルグソンが、身体をどう捉えているのか、みてみると、「私がたんに外から知覚によって知るばかりではなく、内から感情によってもまたそれを知るという点で、他のすべてのイマージュからはっきりと区別されるイマージュがひとつある。それは私の身体である」「私の身体は、あるひとつの瞬間だけを考えれば、それに影響する対象とそれが働きかける対象の間に介在する伝導体にすぎないが、流れる時間にもどして見れば、私の過去が行動へと移り変わるちょうどその点に、必ず位置しているのである」(『物質と記憶』・田島節夫訳)この場合「イマージュ」とは、実体と表象(イメージ)の中間の概念として用いられている。以上から、スズキ氏は、俳優の演技営為と観客との関係を、時間の流れの中に捉えてみたワケだ。この場合の俳優の時間とは、その俳優の個人史のことをいっていると考えてイイ。これに呼応して/演技衝動とはこういう地点から発してくる。自己の存在と自己意識とのあいだにズレを感じること、つまり自己であることの不可能性を、不断に感じるところから発してくるということができるのだ/(「離見の見」)ここには俳優と観客との関係の宿命が語られている。俳優は「みせる」「みられる」という存在だが、それは観客にしてみれば「みる」「みせられる」ということになる。観客が「みている」ものは同じだが、つまり「みえる」ものは同じだが、「みえている」ものが同じだとは限らない。よって/他者によって疎外され、非現実化している自己を、現実性としてとり戻そうとする無償の行為なのである。/(同)ということになる。
私たちがいくら「こうみせよう」としても、観客が「どうみるのか」は、観客の自由(勝手)で、観客というものは、俳優(演技者)が考慮、創意工夫するほどには、俳優の演技など「いちいち、みてはいない」ものだ。はっきりいえば、演技など殆ど、どうでもイイものだ。敢えて「いい演技」「わるい演技」を峻別しようとするならば、観客が気分を害する演技は避けるようにするくらいのものだ。こういうことは役者(演技者)としては、肝に銘じておいたほうがヨイ。「今日の客はノリがいいね」なんていうのが関の山。「今夜の客は芸術がワカルね」などと誰がいおう。私は毎度本番初日になるとこう呟く。「本番さへなければ、芝居ってのはオモシロイんだけどなあ」。役者たちは、冗談だと思って、笑って相手にしないが、それは、私の正直な感想だ。もっとも「本番女優」てのがいて、本番で客が入ると、えらく張り切って、半身を身体から離脱させながら、「ここに我あり」と、稽古でやったこともスッカリ何処へやら、ただ、ご満悦という、どうしようもないのがいることも事実だ。
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