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2012年5月 1日 (火)

tea break 『内角の和』を御馳走になる・4

/不用意な精神には、なにげなく横を通りすぎることのできそうな、それでいて、ひとたびその存在に気づいてしまえば、そこから逃げだすことも、眼をそらすこともできない作家、それがチェホフなのである。/(『チェホフ全集』刊行にふれて)
もちろん「不用意な精神」とは、鈍感のことを指す。私なんぞはその部類に属するから、チェーホフの短編、中編小説を読むまでは、かの四大喜劇と称される戯曲に対しては、登場人物をみただけでしり込みしてしまった記憶がある。そういうことは海外ミステリでもよくあることで、登場人物が多いと、誰が刑事で誰が探偵だったか、人名が出てくるたびに登場人物表のところにもどる。チェーホフなどはロシアの名前で極めて覚えにくく、おまけに愛称まであるから、誰がだれやらわからなくなる。おまけにその名前から人物像を創りにくい。四大戯曲の1ページ目を開いて、何度もため息した。しかし、短編小説『中二階のある家』の結びのコトバの一行の、なんと印象に強く残ることか。「ミシュス、きみはどこにいるのだろう」(小笠原豊樹・訳、新潮文庫)。戯曲は舞台であるから、そのシーンが一場一幕と変わらないのだが、小説は映画のようにロシアの街並みを映す。そうして、チェーホフという作家は、私の場合、厚い毛襟のロングコートかインバネスに身を包み、シルクハットを脱ぐと、はえぎわからスピットカールが垂れ、ドアを開ければ外は吹雪、そのまま医療用の鞄をテーブルに置いて、暖炉の傍らに立ち、やおら手袋をとる。振り向いてドアが開いたままのことに気づいて、あわててそれを閉める。というふうになる。
/「雨が降ったら、雨が降ったとお書きなさい」と彼が言う時、これは表現の技術の問題ではなかった。たったひとつしかない彼の生き方、彼のえらんだ倫理をあらわしている/(同)などは、三島由紀夫のなんだったか、お手伝いさんが水を持って来る、そういうときは「水がきた」と書くのがいちばんいいのだ。に通ずるようで。私も戯曲を書くときは、この表現の簡潔性が、倫理とまではいかないが、自己表出として伝わるようには心がけている。とはいえ、日本の多くの劇作家が何故チェーホフを好むのかは、私には未だにワカラナイ。日本のチェーホフなどといわれる太宰治にしても、私ならチェーホフのほうをロシアの太宰治と呼びたいくらいだ。しかし至らなん哉、太宰の戯曲は良くない。ただ小説の題材を戯曲の形式になおしただけというふうで、『春の枯葉』も『冬の花火』も文体が劇のコトバではナイ。あれを通過して劇のコトバ、戯曲言語は生まれる。小説は話体が生きているのに、戯曲で逆に話体が死んでしまって、あんなのを語らされる役者は迷惑至極だろう。
チェーホフの『かもめ』で、ニーナ(これもほんまは長い名前で、ニーナ・ミハイロヴナ・ザレーチナヤ)がトリゴーリン(こっちはボリス・アレクセーエヴィチ・トリゴーリンときている)に棄てられるまで、都会でどんな生活をおくったのか、スピンオフのように戯曲にしてみようかという企みもあるにはあるが、さほどやる気はナイので、誰かそのアイデアでおやりになれば。

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