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2012年5月20日 (日)

Synchronicityの悪戯

伊丹想流私塾卒業公演を終えて、新大阪に着き、新幹線の乗り場へとプラットホームのエスカレーターを上がるとき、私はときおりやっている一種の悪戯をやってみた。関西、名古屋と東京とではまったく逆らしいが、エスカレーターの右に歩かないひとが並び、左は歩くひと、走るひとのために一列空いている。もちろん、エスカレーターのある場所には、いたるところに「歩かないでください」「走らないでください」という掲示がしてある。ただ、暗黙の了解で、右の列はじっとしていて、エスカレーターの動くままに昇り、左は、歩き、走り、中には駆け上がる者もある。私はそこで、空いているほうに陣取って、歩きもせず、じっと、エスカレーターの動きに身を任せるのだ。もちろん、掲示を遵守しているのは私のほうだ。しかし、これはずいぶんな意地悪にとれる。私の後ろに並んだひとは、歩けるはずが、止まっていなければならない。しかし、いつかは文句をいうヤツが現れるだろう、そうしたら、そいつといっちょヤッテやろうという、aggressiveの捌け口をわざとつくっているのだ。で、今日、そういうのが現れて、私を掻き分けながら「どっち側で止まってんだよ」と、コトバを浴びせて走り抜けたヤロウがいたので、ここぞとばかりに「てめえ、エスカレーターは走っちゃいけんと、いわれとろうがっ」と、急に広島ヤクザになって一喝し、後を追って引きずり下ろしてやろうと思った、途端、「いや、ここでおれが走ると、同じことになるな、上がってからでいいか」と、そこは我慢して、上がってからそやつを捜したがみつからない。ここんとこ、疲れて、血圧は上がりっぱなしだし、微熱もつづいていたので、もう面倒くさくなって、新幹線に乗った。で、名古屋、それからバス停のある最寄りの駅で降りて、バスの時間が15分以内なら、バスを待ち、それ以上なら、流しの車をひろうという寸法なのだが、そこで、一服、タバコ(ではナイんだけど、ね。一応、喉の薬なんだけど)をくゆらし始めると、話し方ですぐにワカッタが、狂気ではナイが知遅性の少年(15~6歳くらいかなあ)が、何処から現れたのか、声をかけてきた。「ここはタバコは吸ってはイケナイところです」。私も、すぐにやめれば良かったのだが、ついつい悪戯ゴコロで、ちょっと試してみたい気になり、「それは吸殻を棄てるなということではナイのか」と問うた。すると「バス停ではタバコを吸ってはいけないんです」となおも少年はいう。「では、どれくらい離れればいいのだろう」と私がさらに訊くと、「10メートルくらいです」という。この10メートルという距離の根拠は、ただ、彼にとってずいぶん[遠い]ということしか示してはいない、つまり具体的な距離ではナイ。そこで「じゃあ、あの柵の向こうでならいいんだろうか」というと「柵の向こうもバス停だからダメです」という。そりゃあまあ、そこは駅前のバス・ターミナルだから、どこもかしこもバス停であるには違いない。そこで「よし、わかった、きみが正しい」と、私は引いたが、彼はなおも、バス停に張られた禁煙マークを指さして「ここでは、ひとの迷惑になるからタバコを吸ってはいけないんです」と、トドメを刺さんばかりにいう。このとき、私は、新大阪での自分の悪戯を思い出していた。つまり、まるで逆の立場に置かれているような気がして、かつ、それが殆ど時を経ずに起こったというシンクロニシティを面白がったのだが、と同時に、それとはべつの、ある疑義もやってきた。私がふいに疑義に感じたものというのは、いま、公衆道徳について、おそらく教育で刷り込まれた通りに語っているこの知遅性の少年は、発することの困難な、心的な身体生理から生まれるコトバを、どのうように制御しているのだろうか、という疑問だ。ひょっとすると、この少年は、教育の刷り込みによって、あるコミュニケーションとしての言語は教えられているが、内在する沈黙の言語の扱い方については、まったく不必要なものとされているのではないだろうか。このとき私が「大愚などは何も価値あるものではナイ」と感じたのは、悔しまぎれではナイような気がする。

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