徒労或いはおとぎばなし
ほんのちょっとの出来事だが、いままでやってきたことはすべて徒労に過ぎないことだという、悔恨に似た寂寞がおとずれた。昨日の昼下がりの出来事だ。そうすると、一気に脱落して、まあ、それでもいいかという気になった。それから、次ぎに、これから行ういろいろなこともいずれ徒労でしかないという諦念と、気恥ずかしさが脳裏を過った。たしかに一切は無駄な労苦に終わった。労多くして効少なし、骨折り損、シジフォスの刑罰。世間は何も変わらなかった。というより、けして良くなったとはいえまい。相も変わらず目先の利益に走るものは、それが何か信条でもあるかのようにそうするし、我先にと地獄へ行く競争をしている。くだらぬ噂で杯を傾け、つまらぬ流言蜚語にまことしやかに頷く。書店の店頭を飾る生き方指南の本は隣に並ぶ料理レシピと同じ程度の価値を持ち、このひとのコトバを聞けなる類の本は、日本民族の誇りを声高に謳う本と手をつないでいる。書を棄てよとかつて詩人がいったせいでもあるまいに、ひとびとは書を棄てたし、また手にしようと思う書もなくなってしまった。
私は脱落から転じて放棄、自棄にまで沈んでしまったが、そんな私の退潮の浜辺に寄せる波が囁く。ああ、そういえば、子供のころに読んだ「おとぎばなし」は面白かったなあ。立川文庫も面白かった。岩窟王や十五少年漂流記やロビンソンクルーソーも面白かった。波は寄せては引き、寄せては引き。ただ波は寄せては引くだけだ。アトは知らんとばかりに。その大いなる徒労。何の役にもたたない運動。月の引力と地球の海との関係からなる、意味なき繰り返し。その徒労の前には、私の徒労などたいしたものではナイ。何かたいしたことをやっていたのではないかというのは私の「おとぎばなし」に過ぎなかった。
ほかのことはなんもしらんよ。我が徒労は我が労働と等価に然り。私は徒労において書き、徒労においてひと日を終える。「おとぎばなし」のおわりはいつもこうだ。「めでたし、めでたし」。何がめでたいのか、私の場合は、おそらくワカラナイままに。そこで、私はもうひとこと、付け加える。
「皆の衆も、かってにしたまえ」
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