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2012年5月12日 (土)

吹きっさらし

今日も朝から強風がつづいている。近隣に中学校、高校、公園があるので、昨日は窓を開けておいたために窓辺に極めて細粒の砂が付着していた。今朝も一度は8時前に目が覚めたのだが、うつらとしている間に10時近くまでまた寝てしまった。よほど疲れているらしい。時間が時間なのと、買い物があるので、いつものスーパーに出向く。贔屓のレジさんは土日は休みだから、要するに主婦のパートで、土日は必ず早番なのは、ちゃんと家族をタイセツにしているのだなあと、キチンと生きているひとに対する信頼のようなものと、自身の泣きどころとしての痛みが同時にやってきた。それからいつものfood terraceで、今日は蕎麦とコロッケパンを食べる。いつもすべての座席が見渡せるところに座るのだが、今日は土曜の正午とあって家族が多い。そういう場面に遭遇した場合、私は「私もこんなふうに生きられたかも知れない」とはどううしても思うことが出来ない。いつも太宰治の『黄金風景』を読むような面持ちで、「なぜ、私はこういうふうに生きられなかったのだろう」という羨望だけがやっいてくる。それもまた疲労しているせいかも知れない。
もうすぐSLOFT/Nの稽古が始まる。演技者はたぶん、上手に演じなくてはと課題を持つだろう。『この夜の果てへ』に出演していた女優に私は「上手に演じようと思ってはいけません」と何度も注意したことがある。演技者が上手くなるというのは自然過程だ。何度も舞台を踏めば、幾ばくかは上達する。経験の学習というものだ。そうでないものは、基本的に演劇というものが好きではナイのだ。演劇という虚構の時間は好きだが、その擬制の関係は好むところだが、演劇自体は好きではナイのだ。戯曲はせりふを覚えるためにだけに読み、けしてそれが自身の心身を通過し、逆に自身の心身が戯曲を通過するものだとは「経験上」においても知り得ない。
演技者は、自身の担当する役について、これはこういう人物だから、このような口調で語ろうとイメージする。これは自然なことだ。どうしても書かれた劇から演じられる劇に入っていくには、まず初手はそれしかナイ。このとき、演技者はさまざまな「教育」によって、役の裏づけを捜したり、行間を読めといわれたことを思い出したり、その役のある場面における心理を想定したり、せりふにこめられた役の心理を追求したりと、忙しく立ち居振舞うのだが、そのすべては間違っている。それがすべて間違っているということを経験して考えてもらうのが、SLOFT/Nの公演の目的だ。簡単にいうならば、「おはようございます」というせりふがホンにあれば、この「おはようございます」が、演技者である自身の何処から発せられるのかを、それまでの「演技教育」のすべてを疑い、または捨象して、内省と研鑽だけを頼りに創り出していかねばならない。この「おはようございます」を、あなたの母親が死んだ朝、あなたを気づかって心配そうにしている隣のオバサンに対して、私は平気ですと、少しの強がりと覚悟をもって、創り笑顔をしていう「おはようございます」というふうに語ったらどうなるだろうか。そういうことをやってみせることが、演技というものの、愉快な悪戯だ。まあ、出来るもんならやってみることだ。

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