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2012年5月 7日 (月)

私の要望する俳優(演技者・役者)

舞台に立って劇を演じるひとのことを、私が演技者と書いたり役者と書いたり、あるいはたまに引用に従って俳優と書いたりして使い分けているのは、そう特定された意味はナイのだが、演技者というのは演出者に対応してのコトバで、役者というのは、何らかの「役」を演じている「役」づきの演技者のことを指している。俳優はあまり用いない。語源を調べるとなんとなくそれらしいのはあるが、どうも、あまりアテにならない。私の場合、自身の職業を述べるのに(売文業→著述業→小説家→文学者・・・この中に作家とか劇作家とか、最近ではフリーランサーとか、文筆業とか、単に物書きとか、いろいろあるが)税金の確定申告においては「著述業」として、細目に「フリーランス」としておく。それと似たようなものだろう。
いつだったか、大阪の『満開座』という劇団(現在、休止中)と、ご一緒公演てなのをやったとき(合同公演ではなく、演目は別々に、同じ時期に、同じ場所でということ)、『満開座』のほうの演目、タイトルは失念したが(てめえんところのほうも忘却している)、芝居の内容はフットボールで、つまりラグビーで、しかも、野外公演ではなく、室内の劇場一面に土を敷きつめ、そこで芝居が進行し、ラストシーンは、本水の雨の中、ラグビーの対戦となって、役者みなさん泥まみれになって奮闘、これには、泣いた、そして笑った。「一回性を生きる」もへったくれも、ともかく、この一回性は、おそらく観客との相互関係がどうのこうのの理屈や美学を突き抜けて、役者としても人生の一回性でしかなく、だいたいの段取りは決めてあるのだろうが(そうでないと終わらない)、何処で誰が転んで、誰がタックルして、誰がつんのめって、誰が泥に顔から突っ込んで、もう、目茶苦茶の乱戦で、泥仕合とはまさにこのことか、いやもう当時風俗で流行っていた女子の泥プロレスなんざ砂遊びにしかみえないくらいの、虚実も何も吹っ飛んでしまう、悲しさ哀しさ愛しさせつなさだけが駆け抜けて、演劇を選んだというものの宿命とはかくも悲惨で文字通りの泥だらけなものかと、泣いた、そうして笑った。ひとというのは、こういう事態に接したとき、泣きながら笑うように出来ているらしい。このときの役者の気持ちはどんなふうなものなのだろうか。そんなに難しく考えることはナイ。ええい、もうムチャクチャや、やるだけやったれっ。の他、何があろう。とはいえ、私はそういう演技者を要望しているワケではナイ。ちょうど今日、シネマテークでアキ・カウリスマキ監督の『ル・アーヴルの靴みがき』を観たのだが、私はこの監督の映画は、ほんとうは観たくナイのだ。キライだというのではなく、もう心底好きなのだが、観るやいなや、たちどころに私は私の創ってきた数多の作品を全否定されたよな気分に陥る。ダメだなオレは、オレの思想(があればの話だが)も理論(があればの話だが)も、この映画一本で、粉砕の憂き目。はい、さようなら。また立ち直るまで時間がかかる。いったい、このカマキリの簀巻きは、何処からかくなるチャーミングな俳優を集めて(捜して)くるのだろうか。この有無をいわさぬ、エスプリと単純なコトバ、そして「お話し」。こういうものが書けなくてはダメだなオレも。こういう芝居が創れなくてはダメだぜ。なんとか生きなくてはナ。

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