tea break 『内角の和』を御馳走になる
1970年前後というのは、いまから四十数年前になるので、私は18歳だ。名古屋にひょっこり出てきた年ということになる。全共闘運動未だ醒めやらず、大学は[自由]で、いまのように門番のガードマンなど立っていることもなく、私は中京大学のニセ大学生として、そこの演劇部で寝泊まりしていた。その頃の日本の演劇状況というのを私はあんまり、というか、殆ど詳しくは知らない。というか、ぽっと出の田舎小僧にそんなもの解るワケがナイ。だって、東京のこともよく知らなかったんだから、ネ。まあ、つまるところ、新劇という、なんだか海外の翻訳劇とかを中心にやっている老舗の現代劇劇団がのうのうと生きており、(のうのうとだか、ぬけぬけだか、どうどうとだかは、これまたほんとはよく知らないんだが)、アングラと呼ばれる前衛的劇集団が、暗躍(というか跳梁というか、跋扈というか)を始めて、その新劇の足下をすくうという、つまり、新劇がアメリカ合衆国であれば、新進演劇のほうはテロ集団だというような構図を思い浮かべれば、ジャーナリスティックには、なんとなく、いまの若いひとにもワカルかなと思う。当時の名古屋なんてのは、大きな道路が何本かあることはあったが、東京二十三区の一区にも満たなかったろう。文化、冗談じゃねえ、文化どころか、本屋もなかったぜ。白い街、文化不毛都市とかいわれておりましたワ。私は何をしていたか、というと、ともかく[自由]でした、ネ。銭はナイ、女はナイ(失敗は幾度とありましたが)。勉強する気もナイ、マルクスも共産主義も知らん。とはいえ、革命はやらにゃあイケン。ひとは恋と革命のために生まれてきたからです。無政府主義(anarchism)、なんかよさそう。共同体(commune)なんかよさそう。クロポトキン、プルードン、バクーニン、さくさくと読んで、よーワカランけど、国家なんてナイほうがええなあ、と、その程度の理論武装で(そうそう、理論も武装するために必要だったのです)。パチンコに明け暮れていたのだ。ところで、この「さくさく」というコトバですが、いま、流行りのコトバなのかと思っていたら、鈴木忠志氏(以下、敬称略してスズキ氏)がのっけに「ある記憶について」で使ってます。あったんですな、当時。この冒頭にある「ある記憶について」は、いいエッセーです。読ませます。文学的なんです。たとえば「幾多の生への可能性を切実に夢見させる一時期を青春とよぶならば、僕には生活の上でそんなものは存在しなかったし、また欲しいとも思わなかった」まるで寺山修司のようです。アドレッセンスの終焉には誰しも思うことだけど。「これは傲慢なことかも知れないが、僕は今迄どこにも青春などというものを生のままに見たことはない。僕が見てきた青春は、いつもどちらかといえば悲惨な物欲しげな表情をして寒空に立っていたと思う」。ここまでくると、中原中也にまで行ってしまいそうなワケで、このアトは、村上春樹(読んでナイんだけど)のような文章に引っ張られ、そうして、いきなり「エーリッヒ・フロムの本に、オモシロイたとえ話があったのを思い出す」と、フロムが出てくる、そのアトには「フロイトが一貫して述べてきたことであって・・・」と、くると、当時の演劇青年、あるいは「若者たち」が心臓をグイっとつかまえられたのも無理はナイ。フロム、そういや、当時読みましたワ、怠惰な私も。まあ、この「ある記憶について」は前書きのようなもので、ここから、私たちは、いったいいまはいまなのかという錯綜した時空を、スズキ氏の演劇論によって味わうことになります。
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