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2012年4月27日 (金)

プチ・ブレヒトへ

「敢えて書く。/アベック・ビーズを見る。/本、演出に不満はある。/それよりも、役者に対する不満は半端じゃない。/役者とは何ぞや?/アベック・ビーズの役者はテキストに奉仕している。/テキストのパーツを、脱していない。だから、魅力を感じない。/次回から、想さんでなく違う方が演出をすると聞いた。/大いに期待します。/ただ、その方が、テキストの解釈に追われる演出をするなら、もうアベック・ビーズは見ないだろう」
 ケリをつけておくために、こちとらも敢えて書く。貴君の演出されたる舞台は二度か三度ばかり観劇した。私が以前にも一度、指摘したごとく、高校演劇をこえるものではナイ。ただし、これは、高校演劇のレベルが低いといっているのではナイ。高校演劇というのは「教育演劇」だ。その域から出ていないということだ。観客は生徒ではナイ。しかし、この文言を読むと、未だにプチ・ブレヒトな演出屋がいることに、嫌気がさす。ブレヒトがやりたいのなら(そんなものはやりたいとは思わないといわれればそれまでだか、貴君が知ってか知らずかは問わず、この文言の論理は、方法論としてはブレヒトのものだからだ)ブレヒトを真っ当に勉強することだ。「テキストに奉仕」というのは、まさにブレヒトが嫌った演技論だからだ。その前にちゃんと弁証法を勉強して、ブレヒトが得意になって用いた弁証法なるものの胡散臭さも勉強してておくべきだ。胡散臭くなく正しいと思うなら、そのエビデンスも確立しておいたほうがイイ。物事を批判するには、それなりの勉強と知識と研鑽が必要なのだ。ただ、「テキストに奉仕」などという、どこやらかで覚えてきた文言を口にすればイイというものではナイ。また、そんな文言を貴君がいえるほどの演出家であるのかどうか、自問したほうがイイ。役者という存在が、「テキストのパーツ」であるかどうかは、私の演劇論でちゃんと解説してある。勉強する気があるなら、読んでおけばイイ。役者という存在が演じられる劇に対して、どのような位相にあるかは、ちゃんと示してある。役者が、戯曲(あるいはその役)に対して単なる読者であろうと、批判する者であろうと、役者の魅力というのは、そういうところから派生、発生するものではナイ。そういう原理主義、教条主義は棄てたほうがイイ。これは揶揄だが、貴君の観た演目は、内容が貴君の解読能力に比して高かったということは理解出来る。要するに私たちが何をやったのか、が、理解出来なかったのだろう。一度、貴君も、かの演目の上演台本と闘ってみればイイ。私たちは、あの演目の稽古の際、幾度も、宮沢賢治と闘ってみた。格闘は貴君のいうような解釈ではナイ。また争闘なき稽古など、やっても意味がナイ。テキストを適当に演出者の理解の範囲で扱って上演することなら、その範囲でのみ、演出はいくらでも可能だ。役者とは何ぞや、と、自問だか、皮肉だかを述べる前に、「演出とは何ぞや」と自身に問うてみるがイイ。演出とは何かについても、私のブログに示されてある。その気になれば、私のブログは、貴君たち、プチ演出者に学べることは豊富に述べられてある。読んでもわからなければ、avecビーズのような高度な演劇など観にきてもしょうがナイ。未だに、私に対する、妬み嫉みという歪んだ接し方をするしか出来ない者が、いっぱしの演出家の面をして、名古屋を徘徊していることについては、ため息するしかナイが、これ以上は、貴君とは関わらない。オレも忙しいかんな。

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