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2012年4月 4日 (水)

続・恋愛的演劇論(実践編)・10

『恋愛的演劇論』なので、超課題を恋愛に則して考察すると、片恋の彼女をgetするのが超課題だとする。そのためには品行方正で、健康で、多少の銭も仕事もなければならないというのも超課題だ。そう考えるしかしょうがナイ。こういう「不眠症は寝たら治る」ふうの、それが出来たら苦労はナイ論理展開はこのシステムの最たる欠陥だろう。しかし、そのことを責めはしない。そんなものは私自身の演劇論も含めて山ほどある。ただ、私の考える演劇(論)とは少々異なるところがある。それに対して比較検討してみたい衝動にかられる。たとえば-「無意識的」な行為を心理技術で「意識的」に創造過程に引き入れる。-という、このシステムの基本的な(あるいは中枢)は、私などからみると、さほど大仰なことではナイように思われる。まえがきで述べられているように「無意識的」というものが学術用語でナイのだとしたら、単純に「自然(的)」といってしまえばイイ。この自然というスタ・システムにおける概念は、「日常」というふうにしても顔を出す。ただ、ここでも面倒なのは、有機的自然と無機的自然の関係だ。その境界の曖昧さが、このシステムをワカリにくくしている。私のとってきた方法は、まるでこの逆のベクトルを向いている。つまり、「無意識的」な行為を心理技術で「意識的」にするのではなく、単純に「意識的」な行為を繰り返すことによって、それを「無意識的」な行為、つまり自然な行為としてしまうだけだ。コトバをかえていえば、「意識的」な行為を用いて「自然的」へと移行させる、ということだ。例示すれば、初めて自転車に乗るとする。最初からあの二輪車に乗れるひとはまずいない。システムの場合、この自転車に乗るという行為(目的としての到達)を無意識的なものにみなして、それに到達するために意識的な心理技術を使うことになるが、こちとらは心理技術などは使わない。何回もやってみるという経験的(意識的)な「量」から、それを(自然的)な「質」へと転じさせるだけだ。もちろん、これは経験主義をいっているのではナイ。経験的な学習をいっている。老人にはパソコンが扱いにくく、子供はすぐ扱えるようになるのは、年齢からくる能力の差ではナイ。経験学習の多少によるだけだ。(ともかく子供は好奇心が旺盛なのと、壊れたって平気という玩具の感覚てパソコンを遊ぶからな)。
「舞台での俳優のこの、内的真実性に支えられた、完全に意識的な状態こそが、感受性を刺激し、無意識的なものの活動を多少とも長続きさせ、インスピレーションを燃え上がらせるのに、いちばん適した土壌なのだ」(Ⅱ・舞台の芸術と職人芸)
とりあえず「内的真実性」という術語にはこだわらないでおこう。しかし、以下の解説的文言はかなりワカリニクイ。私なら頭がクルクルするか、「で、どうしろというのだ」といいたくなるところだ。「完全に意識的な状態」が「感受性を刺激」するはずがなく、つまり、「美しい花を観るぞっ」という意気込みが、花をみて「おおっ、美しい」などと思うワケがナイ。また、それが「無意識的なものの活動」であるワケがナイ。何故なら、それは目標到達点だからだ。また、インスピレーションというのは、「さあ、やって来い」で、やって来るものではナイ。花の観測と花を愛でることとは根本的にチガウ。いつも歩く道を今日も歩いていると、みなれなかった花が咲いている。そこで、携帯電話を取り出して一枚シャッターを切る。これが自然というものであり、スタ・システムに頻繁に使われる「日常」だと思うのだが、ここではその「日常」を意識的に創り出すために、たいへんな苦労をしているとしか思えない。そこで、スタ・システムでは、こういうことについて「記憶」が何か心身の装置でもあるかのように使われる。

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