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2012年4月 6日 (金)

続・恋愛的演劇論(実践編)・14

≪提案された状況≫・≪もし≫・≪空想≫、これらから、超課題である「意識的なものによって無意識的なものを」心理技術で獲得することをスタ・システムだとすると、ひとつ疑問が浮かんでくる。スタニスラフスキーは、「意識的なもの」と「無意識的なもの」という二つの「状態」をどういうふうに把握していたのだろうか。著作の例示やご託を読んでみると、「人間的」という術語が現れることがあるが、そのてのコトバは政治家の使う類のものでしかナイ。「前向きに善処」「キチンと」「しっかりと」と同等だ。前述の「意識・無意識」は、あるいは、それは状態ではなく「作用」なのだろうか。もし、無意識的なものを「自然」な状態だとみて、意識的にその状態を創り出すのを、ある作用だとするならば、これは数式にするのには単に、無意識的(「自然」)をaとして例えば<a>と記し、前者を状態、後者をその状態が創り出した作用とすれば、a→<a>と書けば抽象的にはそれで済む。ここにそれを導くものとしての操作を入れたければ、f(a)→<a>とすればイイ。しかし、意識的なものと無意識的なものの把握による隔たりは、依然として曖昧でしかナイ。≪提案された状況≫・≪もし≫・≪空想≫も、さらにここに≪記憶≫を加えたとしても、これは過去の回想と表象としての概念を、現在というものに同一化しようとしているだけで、なおさらに具体性を欠く曖昧なものとしてしか提出され得ない。そうすると、私たちは超課題というものをスタ・システムの外側から引っ張ってこざるを得ないことになる。その方法を心理技術といわれてしまうと、このシステムの論理(logic)はさまざまな要素が積分されたもので成り立っているとしか理解のしようがナイからだ。別にそれならそれでも、一向にかまやしないのだけど。
で、だ。二人芝居にもどると、私自身の方法が演劇に依らないため、ここでは観客に対しては「勝負」を挑むという念慮に移行する。つまり柔道、空手、剣道、なんでもイイが、相対して敵(相手)と面と向かうという心構えだ。負ければ死ぬ。いわゆる真剣勝負というワケだ。本番の5分前あたりで、この姿勢を整える。左足をやや前に出し、左手をそれに添うように左に出す。右足は引いて、右手は腰の後ろにあて、軽く拳を握る。あくまでこれは攻撃に備え、攻撃に移る姿勢だ。そこで柳生新陰流の「後の先」を暗示する。舞台に出れば、観客に対してこちらから先に何かしかけてはいけない。観客視線が飛んで来た「後」に、自分の姿をさらしたことを確認し、次に舞台全体を意識下に置いた上で、おそらく観客が予想しているだろう、せりふの出し方を裏切って、せりふに移る。この場合相手役のことは何も考えていない。まず、観客が「先」。ともかく観客視線の「後」に、観客を「先」に自身の成分に足してしまう。なんなら、観客席をずすっと眺め回してもイイくらいだ。これは有能な咄家なら、誰しもやっていることだ。談志家元などは、演目、つまりその日の根多を、観客の顔ぶれを観てから決めるということもあったようだ。
さて、ここで、いきなり、流山児が、稽古とは違うキャラクターで、せりふを始めるという事態が生じた。これは不意打ちというやつだ。二人芝居ゆえに、ともかく対処対応しなければならない。私は驚いたので、ともかく、そのまま「驚いた」。そこから幾つかのせりふは、立て直しのために費やすことになった。立て直すといっても動揺を抑えるということなのだが、そこで助けになるのは、内面でも外面でもナイ。導線に移るまでの辛抱だけだ。導線に入れば、身体で持ち直すことが出来る。そこまでにやったことは、流山児を観ないこと。これだけ。

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