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2012年4月10日 (火)

如是想解・46

希死念慮、あるいはうつ病発症のきっかけのさまざまな兆候、状態として、『続・恋愛的演劇論(実践編)』では「ワタシのカラダはドコにアル」という事象を挙げた。その真逆の情況もまた[うつ]を運んで来る。この場合「私の在るここは何処だ」ということになる。つまり「ここは私の在るべき場所ではナイ」という空間認識だ。「私」はそこから一刻も早く去りたいのだが、去るべき方向も方法もワカラナイ。具体例をつづけていくと、「私はゴミ出しの曜日をマチガッテしまった」というこの時間認識は、ゴミ出しの曜日に正確にゴミを出すべきだったという、後悔につながる。この些細な出来事を[うつ]概念は何か「不慮の事故」のように捉えてしまう。その根底には「私がそんなことをするワケがナイ」という判断ミスを自らが咎めている構図がある。ここから、「本来の私であれば、そんな判断ミスをするワケがナイ」と、考えは進んでいく。従って「これは本来の私ではナイ」「ここは本来の私の在るべき場所ではナイ」というところまで、想念は行き着く。そのとき「私」の認識にある環境界は、すでに「私」にとって現実(現在としての存在)ではナイ。この想念がどこから呼び起こされるのか。それは、おそらく過去にあった、身に覚えのない失態、あるいはさほど責められるべきことではナイことをひどく咎められたという、観念の過去への遡行に因る。こういう非現実の場所を私たちは知っている。それは演劇の舞台の上だ。しかし、演劇の場合は「役」という表現された自己を、自己は客観視しているために、役者は取り乱したりしない。ところが、[うつ]を病む者には、そんな役などはナイ。単に表現された(過去に遡行して創り出された)自己を現在性と思い込んで、行き場を失う。つまり、「私」がいま関係している場所を現実だとマチガッテ了解してしまう。そうして、そんな「私」は消してしまわないといけないと判断するのだ。こんな場所に私はいるべきではナイ、在るべきではナイ。このとき、「私」を消去、削除するためには、自死を選択するしかナイ。その念慮が起きてくる。この念慮を拭い去る方法はあるのだろうか。さまざまだとは思うが、私のとっている方法を述べておく。私は希死念慮が生じた場合、私の不在感覚を逆手にとって、自動航行装置というものを真似て、それを働かせる。「これは私が考えて行動しているのではナイ。何故なら、不自然だから。これは私が自動的に動いているだけだ。私以外の何かが私を動かしているだけだから、しばらくはそれに従っていればイイ」。しかし、その装置が「死へ」と導く場合の危険性は常にはらんでいる。それで「死ぬという可能性は極めて低い」ことを、その自動航行装置には打ち込んでおいた、ということにしている。以上は、私の一例にしか過ぎない。
自動航行装置は「考えない」ということだ。ある意味では条件反射的、足がかってに動いて毎度通っているところに辿り着くようなものだ。しかし、もちろん、このような「身を任せ」的な事態ではスマナイ、重い[うつ]症状が発症することがあることはいうまでもナイ。

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