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2012年4月 6日 (金)

続・恋愛的演劇論(実践編)・15

袖幕から舞台に登場して、不意打ちを食らって、導線でそれを立て直す。ちょっとご無沙汰だったが、これを「うつ病」という奇妙な現象と比較すると、この作業は、あたかも自分が「うつ病」の発症情況に置かれたのと酷使している。早い話、私が本番直前にやっていることは、自分自身の存在の意識的(自然にではナイ)な自覚(私はここに在るという覚悟のようなもの)だ。何故、そういう行為を強いるのか。それは、たいていの場合、稽古とはチガッテ、本番(しかも初日)となると、舞台に立った瞬間に、自身の身体的存在が希薄になることを経験しているからだ。もし、敵対する相手がいたならば、この意識は幾分か排除することが可能だ。その敵が観客視線というものだ。緊張から集中という行為は、自身の身体的存在の[確かさを確かめている]という行為に該る。何故、身体的存在の識知が希薄になるのか。それは「役」という私とは別の「身体+観念」が私と「関係」し、私を「了解」しているからに他ならない。これはリラックスの方法によって操作出来るものではナイ。演技する者にとっての本質的な現象だ。もちろん、自然現象でもナイ。役の観念と私の身体の位相の構造の反転から来る現象だ。私は幾分か身体性を取り戻してでも、舞台に出ると、「私は私の身体としてここに在るのかどうかワカラナイ」という不安定な精神状態に置かれる。これはまさに「うつ病」の発症情況と同じだ。しかし、私たちのような役者は、稽古のときと同一の時間へ遡ればその難を逃れられることを知っている。つまり「過去へ逆行しながら、いまという舞台の現在に、自身を関係づけ、了解しよう」とするワケだ。これは数回ステージをこなすことによって軽減し、殆ど、不安な精神状態は消去される。つまり、過去へ遡行しなくとも、現在において自分の身体の存在を自覚出来るワケだ。この不安の消去と現在の身体存在の自覚は、うつ病の回復期に似ているものだ。ところが、不意打ちだ。ここで、私がその「私という身体が希薄になった」状態から立て直しを図るために導線を求めたのは、その導線がいわば、過去への遡行の道筋と合致するからに他ならない。その導線を伝わっていけば、過去へ逆行しながら「現-舞台での存在」に辿り着けると判断したからだ。その判断は間違ってはいなかった。私は身体の自覚を取り戻せた。ここからワカルことは、舞台(主に初日)において演技している役者の殆どすべては、その演技に稽古時の「過去形」を背負っているということだ。アドリブ、ハプニング、があったとしても、私たちは「過去形」に戻ればヨイ。しかし、初っ端の不意打ちは、流山児のほうにとってこそヤバイんじゃないかなと、思った通り、流山児はせりふをストンと落としてしまう。まあ、そこは二人芝居だから、適宜、なんとかしましたけどね。とはいえ、私は何度かこの「身体の不在感覚」には襲われた。そのとき、ああこれは「うつ病」のときの心的感覚と同じだと、妙に納得した。
ところで、スタ・システムにも、『Χ・相互関係』という項目が設けられている。ここでは、スタニスラフスキーが弁証法をある程度は学問した痕跡がみられる。とはいえ、それはかなり表層的なものに思える。あるいは、システムに取り入れたための変容かも知れないのだが、いつものごとく、もうちょっと掘り下げてくれよと、半畳入れたくなる。

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