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2012年4月10日 (火)

如是想解・45

自死、希死念慮のきっかけは、私のようなうつ病の者がいくら経験しても理由のワカラナイものだ。③の心因性でそれがとらえられないのは、文字どおり「心因」ではナイからだ。心因性の最たるものをストレス等とすると、たとえば、自死、希死念慮のきっかけ、あるいはうつ状態に入り込むきっかけは実に些細な事柄だ。たとえば私の場合、ゴミ出しの日にち(曜日)を一日間違えたということがきっかけになって、そういう心的領域に滑り込んだことがある。これは[うつ]を病む者なら、おそらく多くの者が首肯するか、心当たりのアルことに違いない。希死念慮はいいかえると「自己(自因)処罰」ともいえる。しかし、いくらなんでも、ゴミ出しくらいで、と、考えるのが常人なのだが、[うつ]という状態は、ともかく常軌を逸しているということを前提にしなければ話が前に進まないシロモノなのだ。順を追うと、私はゴミ出しの曜日を一日間違えた。従って私はとんでもナイことをしてしまった。もう死ぬしかナイ。となるのだが、残念ながらこれは冗談でも笑い話でもナイ。まず常人の常識で考えると「ゴミ出しの一回くらい、どうだってイイことじゃナイ」ということになるのだが、しかし、ひとの自殺の原因というのは、他人から考えると、実にバカバカしいことのほうが多い。私が小学生の頃、クラスの女子児童が自殺したが、その原因は理科の実験で試験管を誤って割ってしまったという、信じられないようなことだった。信じられないようなことで死ぬのなら、大人でも失恋自殺というのがある。フラレタくらいでねえ。と、他人はいうが、当人にとってはそれが世界で最も重大な出来事なのだ。常人でも、アドレッセンス(思春期)において、失恋したとき「ああ、もう死んでしまいたい」と本気でかんがえたことの一度や二度はあるだろう。明治36年(1903年)5月22日、一高生の藤村操が華厳の滝で、滝の近くにある樫の木を削り、「巖頭之感(がんとうのかん)」と題する遺書を残して投身自殺した。これは当初は「哲学自殺」などといわれたが、後に、失恋自殺だということが判明している。まあ、ひとの自殺の因などはそんなものだ。とはいえ、希死念慮に苦しめられているのも悔しいので、死ぬときは死ぬときとして、いま少しその心的領域に踏み込むことにする。

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