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2012年4月13日 (金)

続・恋愛的演劇論(実践編)・21

実践編なので、実践に則して述べていく。その伝でいくと、スタニスラフスキーは役者であり演出家だった。ブレヒトは劇作家であり演出家だった。この両者を隔てているものは、巷のインテリ演劇屋が口にする叙情的表現と叙事的表現のチガイなどではナイ。スタ・シテムがワカリニクイのは、執筆年月の長さにおけるスタニスラフスキーの考え方の変容におけるものだ。「ああではない、こうだ」「いや、違う、これだ」というこの真面目な演劇者は幾度も自身の思考と実践とのあいだを格闘している。後年、弁証法的唯物論を学んでもいる。(但しロシア式の)。しかし、主にその根本となるのは心理学だ。心理学はアテにならないのよ。観察-分析-統計だからな。それに比するとブレヒトは、スタ・システムという研究材料があった。これはhandicapというものだ。おまけに異化効果というものを唯物弁証法から導入した、というのだが、私にいわせればブレヒトの弁証法など誤謬も甚だしい。そんなものは、自身の理屈に泊をつけただけのように思われる。おおそれながら、ブレヒトの演劇の方法論を述べておくと、スタニスラフスキーのそれが、観客の感情同化だったのに対して、観客は舞台の出来事を批判しながら観なければならないというシロモノで、まあ、どっちも「教育劇」なんだけど、これは転び方で、傾向演劇にも翼賛演劇にもなる。観客が舞台をどう観るかなどということは、その観客固有の特殊性でしかナイ。話をうんともどせば、演技者からの「ゆらぎ」をどういう「ゆらぎ」で増幅しているかだけのことだ。演技者(俳優)と戯曲(役)における関係・了解においても、俳優はその役に対して同化するだけではなく、これを批判的に取り入れなくてはならない、ということになっている。これらがいわゆる異化といわれるブレヒトの方法だ。しかし、これはいってみれば「自然過程」なのだ。「作為過程」に移行させなくても、演技者はbeginnerはともかく、与えられた役(スタ・システムにおける「想定された状況」)に対しては、順応もすれば批判的にもなり得る。ただ、「役者と乞食は三日やったらやめられぬ」という格言のいわんとしているところは、その何れにせよ、自身に対する向き不向きということには敏感で、いまなら簡単に「この役は出来ない」とオファーを断るだろうし、また、「これ、難しいけどオモシロソウ」と演じるだろう。つまりその役を演じることが「楽しい」か、そうでナイかだけだ。(楽しくナイけど銭のためというのも多いけど)。およそどこを捜しても、ブレヒトからは唯物弁証法などみつからない。そこから知れることは、ブレヒトが飼っていた俳優が、弁証法に無知だったという例証だけでしかナイ。私は何も、ブレヒトが女優好きで、手が早かったことに嫉妬しているのでもなければ、ナチから亡命する際に、共産主義者ではないかと尋問され、「私は違いますが、あいつとあいつは、そうですぜ」と、仲間を売ってその場の逃れたという仁義の風上にも置けない人非人だったから、苛立っているのではナイ。インテリなんてのはそういうもんだし、インテリでナイ者も、ひとというのはそういうものだ。私のブレヒトに対する感想をひとことでいえば、何処だかのプロデュースで『三文オペラ』を観たとき、当時の(現在もだが)観客は、こんなものをみせられて、批判がどうの、異化がどうのと強いられていたのかと唖然としたことのみだ。要するに「子供だまし」。とっとっと、アドレナリンを出しすぎて、肝腎の戯曲の「日記的」部分について書く余裕がなくなった。それは、次に。

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