あの坂を越えたなら
きんのは、クリニックの受診日で、主治医のヒロコちゃんから、かかりつけのdoctorの杉浦医師が二日前に亡くなったという訃報を聞き、帰りは近道の裏道の墓場の中を通るのをいいことに、「死んだものよ、聞くがいいっ」と叫んだアトで、小林旭の『惜別の歌』を電動自転車こぎつつ大声で歌ったが、泣けて胸つまり、嗚咽、慟哭、それでも3chorus、歌って帰った。杉浦医師は、余命半年のところを、点滴つけながら診療を続けて二年踏ん張られた。あるとき、待合室の受付で老婆が「私のようなものが長生きなんかさせてもらって」とコトバにつまっているのを観ていられず、トイレに駆け込んだこともあった。だからあちしも、二年くらいは踏ん張らねえと。
きょうは、玉子と氷と生湯葉を買いにいくつもりで、近所の大型スーパーに行ったが、午後からは試写があるので赤飯の小パックを買い、そこのfood terraceでいつものざる蕎麦とで、早めに昼食をすませた。お気に入りのレジさんもいたが、いつもいつも、そこを通ると、まるでストーカーみたいに思われるのがイヤで、一つずらした。おりしも、週に一度の特売デーで、レジには1番から10番まで行列が出来、私の後ろにはお婆さんが手カゴを下げて並んだので、手カゴは私のカートに乗せてあげて、順番も譲った。これはEことをしたワケではなく、当然のことで、もっと卑屈にいうなら、ただのA(C)なだけのことだ。こういうのを善だの悪だのということから、ルサンチマンなんてものが始まるのだ。
お気に入りのレジさんは、高校のときに秘かに憧れていた1年先輩に何処か面影が似て、きょうは笑顔を二度観る良き機会があったが、眼鏡の中のやや斜視と、後ろで結わえた長い髪と、笑ったときの八重歯と、五十前後にしてはきれいな歯と、要するに片恋というよりも、身も蓋もなくいうと、それは私のfetishismに過ぎないだけなのだが、すぐにそういう分析をしてしまう私自身のクセもヤになっちまうので、私の中の妄想は、母の日にそこの花売り場で一束の花を手に、レジで購入したら、そのままそのレジさんにあげるという、romanticismになるのだ。
試写の『バッド・ティチャー』はキャメロン・ディアス主演なのだが、なんだか3時間くらいで書かれたようなscenarioを、なんの工夫もなく撮られた感じで、キャメロン・ディアスはどうもコメディアンヌの路線をいきたいようなのだが、老けてしまった顔ばかりが気の毒というふうだった。
きんのは、先述したようなワケで、何をする気にもなれなくて、夕方から、しこたま飲んでいたが、「加速度」を勉強しなおすのに、ニュートン力学をお復習いしてみた。「運動量」「運動エネルギー」「関係」「了解」「作用反作用」さらには相対性理論の「ウラシマ効果」まで、酒の肴となった。いけるかどうかはワカラヌが、ともかく、ηあの坂を越えたなら幸せが待っている~、と都はるみの唄を今度は鼻唄に歌いながら。
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