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2012年4月 7日 (土)

続・恋愛的演劇論(実践編)・17

私たちが、「相互関係」をどうかんがえるかの前に、前記16における、あの怪しげな文言、「放射線の発送と放射線の受領、放射とその受領と呼ぶのはどうか」という「相互関係」の在り方に引導を渡しておこう。これが訳者の誤訳でナイとするならば、「放射線」というのは、ゴジラの吐く白熱放射線でナイ限り、一方向に向かう「線」ではナイのはあきらかなことだ。簡単にいえば、白熱電球を灯した場合の光の放射を想定すればイイ。つまり球面方向(四方八方)に飛んでいく線を放射線という。これは「相互」の「関係」ということでいま思いつくところでいえば、「引力」のことをいっているとしか思えない。それが最も科学的な解釈になる。そうするとニュートン力学において、「相互(即ち二つの物体)にはたらく万有引力は、それぞれの質量に比例し、物体間の距離に反比例する」ということになる。あの有名な公式G=Mm/r2 だ。つまり、これでいうと、俳優の距離の2乗に反比例して引力が弱くなる、ということだ。これは舞台上の俳優の位相構造をいっているのだろうか。たしかに好きな者どうしは近づくし、ヤな者は離れる。恋愛的演劇論ふうにいえばそうなるし、近づき、抱き合い、insertまでいっちゃう。とはいえ、遠距離恋愛のように離れているほど思うココロが強くなる(いまはどうか知らんが、戦時中はそうやった)ということもある。まあ、このへんでええやろ。
私たちが求めた公式は、12において、次のようなものだった。
[主体(演技者)-役(対象)]の成分をdyとして、演技者と観客からの視線の演技者の成分をdxとし、その偏角sineθの絶対値|a|を観客視線とする。そうすると、dy=f(dx+|a|)という方程式が求められる。ここには、「相互関係」としての、相手役は入っていないようにみえる。しかし、新たに「相互関係」としての相手役を含める必要はナイように思われる。何故なら「相手役」とは、私たちのかんがえでいうと、「私から表現されたもの」だからだ。つまり、dx・dyの成分の中にそれは含まれてしまう。相手役がどのような演技をしようと、それらはすべて「私がみているところの相手役の表現」を私が(私の表現としてみて)いることになる。これが舞台の上、役の表現の上でのほんとうの「相互関係」だ。つまり、「相互関係」とは、スタ・システムで扱われているような単純なもの(というよりカント哲学的)なものではナイ。何故なら、二人芝居でもワカルように、そこには観念の運動というものが存在するからだ。そうすると、スタ・システムでいうところの「有機的」な演技とは、観念的に把握された身体の変容ということが出来る。で、なければ、演技者(俳優)は「役」の中に逃げ込むことによって、自己保身することに専念しなければならない。観念的な身体の変容認識に耐え得ないからだ。この理由もあって、私は演技者に「役作り」なんかを勧めない。そのような逃げ込む場所を与えない。「役」を「表現された自己」だとするならば、その時間性は、概念化されたものだ。つまり素の自己の時間性とはまったく違うものだ。劇場の時間、舞台上の時間というのは、概念化された「表現された自己」であるところの「役」が生きる位相として存在している。役を生きるというのは、最近取り沙汰されている東京の娘っこが軽々しくほざくような戯言ではナイ。それは「表現された自己」という変容に耐え抜くことだ。しかし、もしこれが、劇場の時間でもなく、舞台上の時間でもなく、位相を違えた日常という時空に、ある表出として出現したら、私たちはたちまちにして自身の身体の在りようを逸してしまう。「ワタシのカラダはドコにアルノカ」。うつ病におけるこの症状の在り方は、自身の心身が、環境世界に存在することを認識出来ないで、あたかも表出された「在り得ない位相」に在るとしか認識出来ないことに、その特異性を持っている。つまり、うつ病の者には逃げ込む「役」に相当するものがナイ。だから、「ワタシのカラダはドコにアルノカ」というところに、つまり非存在的な位相に存在しなければならないという矛盾を背負うことになる。何故、そんなことが症状、症例として起こるのか、いまのところ、演劇との類似に辿り着くことしか、私たちには出来ない。

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