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2012年4月23日 (月)

SLOFT/N稽古日誌

昨日の夜をもって、SLOFT/N主催の演劇塾『えんげきの「え!」』season1が終了した。昨夜は、質疑応答。とはいえ、私は「答える」のではなく、あくまで「私はこう考えてますけど」。で、こういうことは、伊丹の戯曲塾ではやったことはナイ。それを敢えてやるのは、もちろん、若いひとの考え方、現在演劇への疑問、思考力のレベルが知りたいから。主にそれまでのレクチャーについての質問が多かったが、一ついえることは、彼女たちは(というのも、男性は一人もいなかったので)頭はよろしい。これは知能はよろしいというということ。理由、質問が的確に出来るゆえ。的確にとは、疑問の持ち方が正しいということ。自画自賛でいえば、キチンと教えれば(私の考えをの述べれば、だが)それにキチンと応じることが出来る能力があるということ。おそらくは、くだらんワークショップなどでは、そうはいかない。何を教えられているのかワカランのだから、何を疑問視すればいいのかがワカランのだということ。たとえば、ワークショップにおいての訓練が「つくるためのもの」なのか「使うためのもの」なのか、さらにそれをどう結びつけていくのかも、おそらくハッキリしていないだろうということ。
たとえば、コスチュームと身体についてを教えてくれるワークショップてのはあるのか。コスチュームというのは、役者のカラダと同一だ。いいかたを変えるなら、役者のカラダの拡張だ。私たちは、雛壇お喋りバラエティで、有名占い師とか、美容師とか、なんだか知らないオバサンが、何百万、何千万もする時計やネックレス、腕輪、イヤリングを付けて登場して、司会者がそれに感心し、出演者が驚くという光景を何度も目にしたことがある。しかし、それが何故、貧乏くさくにしかみえないのかについては、不思議だなと思う程度だ。日常、私たちが身にする衣服は、「おしゃれ」と「機能性」で、他にはナニもナイ。男女、どちらの場合も、「おしゃれ」はそれを着ているものの「人格」を現しているのではナイ。単純に着飾る「才能」を現していることになる。では、その他の装飾品や、服飾は何なのかといえば、その者のフェチシズムということになる。何百万、何千万のフェチは、要するにそのひとの変態趣味ということになる。貧乏くさく思えるのは、身につけているようで、身についていないからだ。つまり、そのひとのカラダの拡張になり得ていないからだ。それは、そのひとの強い「主張」でしかナイ。「拡張」は有機的自然な作用だから、あくまで「自然」の範疇に入る。かつ、そのものによって変容された自然だ。「強い主張」は、その伝でいえば無機的自然ということになる。そのひとが産出した自然ではナイ。そのひとによって変容されていない自然という範疇に入る。コスチュームは、演劇において、ひじょうに強い舞台効果となる。努々(ゆめゆめ)軽んじるなかれ。
参加メンバーの知能程度が高いところの証左でいえば、一つの同じ作品に対して、観客個々がチガウ評価をするのを、どう受け止めればいいか、というものがあった。これはれっきとした観客論だ。つい最近まではポスト構造主義で煩くいわれていた事柄だ。これについても一応の考えは述べておいたが、現在、観客と表現者との問題をニュートン力学で方程式にしようとする試みの最中で、こちとら頭がグルグルしているので、雨降りの今日明日は、ちょっとお休み。

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