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2012年4月 2日 (月)

続・恋愛的演劇論(実践編)・9

『俳優の仕事』(理論社・千田是也 訳)の大著をすべて俎上に乗せての作業は、私の能力をこえるので、触れられる部分、それで充分と思えるところ、という妥協をした。というか、正直なところ、私の手元には第一部の1と2の二分冊があるだけで、それ以上読み続けたいという気分にもなれない(退屈な本だと思うのが本音なんだけど。あのですね、日本の『役者論語』なんてのはかなり面白いですぜ)怠惰な読者でしかなく、また、新訳はあまりに高価なので買う気にもなれず、それでも大概のところはイケルだろうという一知半解だということは予め書き留めておく。やっかいなのは、スタニスラフスキー自身が「まえがき」で、術語について(たとえば[無意識的][直観])は哲学的、科学的な意味合いで使っているのではナイと断りをいれているところだ。「大きな科学だ」と大見得をきったわりには、科学が追いついていないからで、自分たちに罪はナイと仰っている。だから、その点では、私たちは、ある曖昧さを受け入れねばならない。それはこの著作が、読者を演劇というものに対して素人(beginner)に想定しているのに関わらず、ある部分では教師(講師)のコトバがいきなり概念化されるという奇妙な特性を持っていることを許諾せねばならないということと同じだ。
それはたとえばこういう部分に現れている。冒頭、生徒が提出された芝居のプロットを演じてみせる。それを教師はともかく褒める。その理由を「俳優が脚本にすっかりつかまれてしまうときが、いちばんいいのだ。そういうときに俳優は、どんなふうに感じているかも気づかず、何をしているかも考えずに、役の生活をほんとうに生活する-すべてのことがおのずと、無意識のうちに起きていく。-しかし、残念ながら、われわれはこの種の創造を、いつも自由にあやつるわけにはいかない」と述べたうえで「それを刺激したり、誘導したりできるようにならなければいけないのだ。そのためには特別な心理技術的な方法があり、これは学んで手に入れることができる。その役目は、意識的、間接的な方法で無意識的なものを呼び起こして、創造過程に引き入れることにある。われわれの体験の芸術の、最も重要な原理のひとつは、俳優の意識的な心理技術によって自然の無意識的な働きを刺激することだ」(Ⅱ・舞台の芸術と職人芸)と答える。ここでスタ・システムがどんなものかの概要はほぼ述べられているとみていい。つまり、身も蓋もなくいってしまえば、このアトは、それ(心理技術)についての方法が、あれやこれやと出てくるに過ぎない。それに付加されるのは、職人芸や形式主義的演技の批判とリラックスの方法くらいだ。そこで、私たちを苛立たせるのは、「超課題」というものが、「それを目指してある」ものなのか、「それを土台としてある」ものなのかの区別がつかないことだ。ここでも私たちは循環論に悩まされる。俳優が正しい演技をするには超課題が必要だ。超課題を目指して役者は一貫した行動をせねばならない。卵と鶏の後先に似た矛盾にだ。先にヒントとして、それは「戯曲において」存在するようなことを私たちは観ている。これについては、『俳優の仕事』の中でも具体的に述べられた部分がある。「超課題と一貫した行動」において、:脚本の超課題:という項目があるのだが、ここに何故「脚本の」と冠が付けられているのかは、演技のそれとは別だが、同じものだということの記述だと考えられる。教師は例をあげていう。ドストエフスキーの超課題は「神の追求」、トルストイの超課題は「自己完成」、チェーホフの超課題は「生活への努力」。で、俳優はこの超課題を一貫して行動せよ、と。

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