続・恋愛的演劇論(実践編)・13
スタ・システムでも、戯曲と俳優との関係について書かれている部分はある。そこでは単純に「もし・・・であったら」と、『提案された情況』が戯曲から俳優にmissionされるものとして扱われている。(Ⅲ・行動・≪もし≫・提案された情況)(Ⅳ・空想)が、それに該る。しかし、スタ・システムでは(たぶん、おそらく殆どのなんらかの演技システムやメソッド、ワークショップにおいても)演技と戯曲との結びつき(その関係と了解)について深く踏み込んでいる部分はナイ。このシステムが日本の新劇に取り入れられた時代、岸田國士が『演劇一般講和』でリアリズム演劇派を相手どり、戯曲の位置についての積極的反論を挑んだのは(それはそれで戯曲重視という姿勢ではあったのだが)正しかったと思える。スタ・システムにおける「提案された情況」というのは戯曲に書かれた役のことだが、それを≪もし≫という「魔術的(という表現がなされている)」方法によって、俳優は読み取っていくのだが、この「Ⅲ」と「Ⅳ」はとりわけ重要なナニかが提起されているとはとても思えない。つまり驚くべき心理技術などはどこにもナイ。どんな素人であっても、ホンに書かれた役(提案された情況)について、自分が≪もし≫その役であったら、というようなことはかんがえて[当然]だとしかいうことはナイ。そうして、スタ・システムに一貫して(と、皮肉に同じ語義で述べておくが)忘れ去られているのは、俳優の「身体」だ。これは、おそらく「訓練」に回されていると推測するしか仕方がない。たとえば『ハムレット』をやるためにはフェンシングが必要なので、その訓練があるとか、ネ。この悪しき慣習は、いまもなお亡霊のように俳優志望の面々の周囲を徘徊している。身体を単なる機能としてしかとらえないという慣習がそれだ。ひとの身体はある意味で、「観念」としてとらえなければならない。これを観念論というのは大きな錯誤だ。
空想について、生徒の「もし空想力がそんなに俳優にとって大切なら、それをもたない者は、どうしたらいいのでしょう」という問いに、教師は「空想を発達させるか、舞台をやめるしかない。さもなければ、演出者たちの手中におちいるほかはない。これは俳優にとっては、自分の想像力を断念し、舞台の上の駒になってしまうことを意味している」という極論を以て答えている。ここで、演出者と俳優との演技(役の解釈)をめぐる食い違いをどうするかという論議があってよさそうなものだが、なにしろ、このスタ・システムは演技論なので、そこまではこの段階では踏み込んでいない。(アトから踏み込むのかどうかは知らんけど)。
さて、流山児との二人芝居の初日。劇場は小さなスタジオで、私たちは開場30分前には、袖で飼い殺し(待機)にならねばならない。流山児の深呼吸ばかりが聞こえて来る。リラックスの方法など役に立たないし、私は、こういう場合はリラックスなどすべきではナイと考えている。それよりも緊張を集中に転換することに志向させたほうがイイ。それにはまず、自身の緊張を意識的にして、極度に上げることだ。自分は緊張していると自覚することだ。そこから、なんのために緊張しているのかをかんがえる。答は簡単だ。観客という相手がいるからだ。もっと細かくいうなら観客視線、つまりsineθの角度だ。これを自身の外におかず、自身の内のものとして取り込んでしまう。これが、dx+sineθだ。では、具体的にはどうすればよいのか。このアト述べるのは、私のとった方法だ。
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