続・恋愛的演劇論(実践編)・20(一部加筆)
演劇(劇)を教える、あるいは習う(修練する)ことが難しいのは、単純な理由に依る。「演劇というものが何か」を教えるがわも習うがわも知らないからだ。習うがわが知らないのは仕方ないとして、教えるがわの無謀、無知、暴虐無人、知ったかぶり、受け売り、経験談、は、枚挙に暇がない。そういわれるのが悔しかったら、答えてみるがイイ、「演劇とは何だ」。「スタニスラフスキーの演劇は叙情的で、ブレヒトの場合は叙事的といわれます」などという教師(講師)がいたら、こいつは耳学問のアホだと思って差し支えない。「まず、演劇は戯曲から始まります」というのがいたら九割方は信用してイイ。
私たちは劇というものを、「書かれた劇-戯曲」「舞台で演じられる劇」というふうに分けた。もう一度ここから始めよう。この二つは前者をWとし、後者をPとしてもW≠Pというふうにしか書けない。同じ「劇」でありながら、その集合の含む要素が違う。同じ「劇」でありながら、成立の仕方が違う。歴史的にみれば、「舞台で演じられる劇」の成立のほうが早いのはいうまでもナイ。それは必ずしも文字言語を必要としないからだ。じゃあ、どこに「舞台」があったのですか。ギリシャの遺跡とか、現在も演じられている能狂言のあれですかね。と、こういうアホもいる。こういうのは、高校演劇では優等生だったかも知れない。また逆に、街頭も舞台だ。街を舞台にするのだと意気込んで、えらく大袈裟に実験劇の旗を降りたがるというのも、その裏返しにしか過ぎない。また未だに「ブレヒトの異化効果は、ポスト構造主義的には、デコンストラクションに受け継がれ・・・」というのは死に損なっている左翼演劇、もしくはその支流の虚仮威しにしか過ぎない。
春の気配の眠さを払拭するためにアドレナリンの値を作為的に上げたが、いっこうに眠さは去らない。たぶん、睡眠障害というあれなんだろう。「劇」が一子相伝、口伝による伝統芸能を除いては、「戯曲」から始まるのは自明の前提だ。しかし、戯曲というのは「書かれた劇」であるために矛盾を持っている。(この場合の矛盾というのは「あいつはいうこととヤルことが矛盾してる」という矛盾ではナイことはいうまでもナイ。・・・ああ、なんという丁寧な注釈だろう。ここの矛盾は、弁証法の術語の「矛盾」で、同一のものが、それ自体、逆の反対(異質)のものパラドクスでもある、ということだ。つまり「矛盾(ほこたて)」だ。矛と盾が一緒に存在しているということだ)。戯曲の持つ矛盾とは、それが書かれたものゆえに、読み物(文学)としても独自に成立しているのだが、本来は生身の演技者の身体等を前提にした、演じられる劇のために書かれたものだということだ。従って戯曲は「書かれた言語」ではあるが、「演じられる言語」として読まれるということだ。ここから、演劇総体の難しさが出現する。何故ならば、私たちは演劇とは何かを語るにおいて、戯曲、演技、演技者、演出、観客・・・nと、この総体(大局-集合)を観ながら、その要素を、要素として、あるいは、部分集合として、あるいは合集合として、あるいは、別の集合との関係として語らねばならないからだ。とはいえ、総体(大局)を語ることは難しいかも知れないが、それらを一つ一つ、粘り強く追ってさへいけば、「群盲、象を撫でる」ではなく「群象、盲を撫でる」というケッサクな矛盾に至る。想像してみたまえ、た~くさんの象さんが、ひとりの盲人をあの長い鼻で撫でてるんだぞ。
戯曲の成立を歴史的に披瀝してもあまり意味がナイので、そういうことを知りたい方は、演劇史のオベンキョでもすればイイとして、戯曲そのものは、私の学んだ浅薄な学問からは(といっても、そのテクストにしたのは主に『言語にとって美とはなにか』(吉本隆明・著)からだから、けして浅薄ではナイのだが)、「日記文学」と「説話文学」の成立のアトにこれが融合されたものだと、いってイイ。だから、どの戯曲においても、必ず、作者の日記的な文学部分と説話的な文学部分が含まれる。ところで、この説話的な部分は単純にstoryやplotだと思えばイイが、タイセツなのは日記的なぶぶんだ。
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