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2012年4月15日 (日)

続・恋愛的演劇論(実践編)・23

スタニスラフスキーとブレヒトの演劇の在り方の違いを簡単にいってしまえば、前者は日記的要素が強く、後者は説話的要素が強いと、これだけのことだ。言語表現が叙事的なものと叙情的なもの手に入れてからは、「書かれた劇-戯曲」から出発する演劇に、いずれが叙情的で、いずれが叙事的だ、という概念は極めて曖昧になっている。能狂言の比喩でいえば、前者は能に近く、後者は狂言に近い。もちろん、あくまで比喩としていう限りだが、そう理解しておいて「あたらずとも遠からず」だと思う。日本の能狂言との戯曲(らしきもの)との違いを述べれば、スタ・シスもブレヒトも歴史との連関(時間性)においてそれをとらえようとしたが、能狂言は、それをあくまで固有性(空間性)においていたということだ。能楽にも「修羅物」(二番目能)と呼ばれる歴史に題材をとったものあるが、テーマは歴史そのものではナイ。ここでも、能は叙情的要素が強く、狂言は叙事的要素が強いのは、発展の過程において狂言のほうが「書かれた劇」としても歴史が古いということを物語っている。要するに『恋愛的演劇論』ふうにいえば、『番町皿屋敷』のお菊が皿の数を数えるというところで、叙事も叙情も演劇総体の中に融合されてしまっているとみてイイ。なんしろ、事象としては、お菊は皿の数を「数える」だけだからな。
つまり、私たちのやったことは、演劇における叙事的、叙情的な境界概念を払拭したことになる。「筋」も「人情」も戯曲にはあるのだ。さらにいうならば、およそ言語というものが、「劇」という表現を手に入れたとき、私たちはある宇宙的なビッグバンに立ち会ったことになる。粒子と反粒子の反応、これは、いわゆる演劇の「リアリズム」がどうだこうだという低劣な問題ではナイ。私たちは、私たちの「≪超≫課題」であるところの、「現実(realism)と虚構(fiction)」についての考察へと進んでいかざるを得ない。

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