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2012年4月18日 (水)

コトバ・コトバ・コトバ

日本の現代劇は何故面白くナイのか。先ず第一に、日本の現代劇を通じて、最も大きな欠陥とすべきは、「言葉の価値」が著しく無視されていることである。「聴かせるための言葉」が、文学的にいっても、まだ極めて幼稚な表現にしか達していないことである。「語られる言葉」が、「読まれる言葉」に対して、どれだけの心理的もしくは感覚的効果を与え得るか、この点、劇作家の用意が頗(すこぶ)る散漫であり、俳優の工夫が至って怠慢なことである。・・・というのは、私のコトバではナイ。実はかつて岸田國士がそのエッセー『未完成な現代劇』で述べた一節だが、いまでも充分に通用する。耳の痛い劇作家や俳優も多いことだろう。ついでにいえば、当時は演出者という者がなかったために、ここでは演出者には触れていないが、「演出者の戯曲解読能力の低劣さ」と、「演技者に対しての戯曲演出営為の姑息さ」を挙げておけばイイ。
岸田國士の「言葉言葉言葉」から、ちょっとしびれる名文を。
「親戚の青年が一人、僕のところにやって来る。-月に一度乃至二度。/彼は、来た時にはただ頭を下げる。それから帰る時、「もう帰ります」と云うまで黙り続けている。-二時間でも三時間でも、時とすると半日。/僕は仕事の手をを休めて彼の顔を見ている。というよりも彼が今、何を考えているかを知ろうと努める。・・・彼は何も考えてはいない。ただ、悩ましげに、「自己の存在」を見つめているのだ。/彼は僕と話をしに来るのではない。彼には、黙って彼の前にすわっている人間が必要なのかも知れない。/誰にでもそういう時がある。」
これなどは、「沈黙」という劇言語のせりふを暗示していて興味深い。また、これで、一つの立派なplotだ。さて、もう一つ。
「庭にコスモスを植えさせた。少し時期が遅いかも知れないということであった。旱(ひでり)が続いた。朝晩、丹念に水をやった。萎れかけていた葉が、茎が、活き活きと伸び上がった。立派についた。/「なあに、コスモスなら、ほうっといてもつきますよ」/今になって、人が、こう云ったとする。/あなたは水をやったことを後悔しますか。ほんとうに後悔しますか。」
散文で書かれているが、話体(せりふ)になおしてみればイイ(なおせる実力があるならばだが)。ひとつ、若き劇作家諸君は挑戦すればイイ。また入力を換えれば、ひとりの演技者(劇作家・演出者)を育てる営為に読める。
岸田國士の演劇論は実に興味深い。当時の写実主義(リアリズム演劇)に対して彼のいうところの「劇詩的劇」をもって、劇作家から痛烈に(というよりも苛立って)批判している姿は凛々しいものがある。当時の演劇論としては、彼の論理はいつも先に一歩は進んでいる。とはいえ、それらをすべて首肯することは、いまの私たちには可能なことではナイ。だが、当時の他の如何なる演劇論を排しても拝聴する価値はある。

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