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2012年4月13日 (金)

続・恋愛的演劇論(実践編)・22

そもそも、日記というのは誰に読ませるために書くものなのだろうか。あるいは、誰かに読ませるために書くものなのだろうか。(職業作家のなんたら日記とかは別にして)。私は高校生の3年間日記をつけていた。(この「つける」というのは習慣になっていることを現す)。1年生のときのそれは、あるひとりの同級生の女生徒に片恋していた時期で、毎日毎日、そのことばかりが書かれている。(そのひととは、30余年ぶりに逢ったんですけどネ)。つまり、心情を吐露しているのだ。もちろん「本日は晴れ、汗ばむ、洗濯をする」というふうなことを書かれた日記もあるに違いない。この前者のような心情を吐露する、つまりそのようなことが書かれたものを「叙情的」表現という。かわって、後者のようなものを「叙事的」という。文学的な表現は文人でなくとも、『万葉集』になると、この「叙情的」な表現に富むものとなって来る。これが言語表現の発達(発展)だとすると、戯曲においてはすでにこの「叙情的」なものと「叙事的」なものは用いられていることになる。それは役のせりふに、あるいはsituationにおいてもだ。たとえ叙事的にみえる「本日は晴れ、汗ばむ、洗濯をする」においても、叙情的なものは含まれる(読み取ることは可能だ)。何故なら、そこからは、それを書いた者の視線や体感が伝わって来るからだ。もし、それが、せりふとして表現されるものであるのなら、なおさらのことだ。ここに「本日は晴れ、汗ばむ、洗濯をする。ランニングシャツだけを洗おう」と付け足せば、いよいよ叙事的なものは叙情的になっていく。(なんで、とかいうひとはもう、ついてこんでヨロシイ)。書いたものの視線に、ある意思が含まれるからだ。意思の表出は「ランニングシャツ[だけ]を洗おう」という表現になって、強調をともない、書いたものの主体像が今度はみえて来る。これ以上のどうたらこたらは必要ナイと思われる。演劇において「叙情的」も「叙事的」も概念(category)分割の意味はまったくなさない。それは単純にいってしまえば、演出者の単なる趣味(fetishism)にしか過ぎない。叙情的なものが同化で、叙事的なものが異化だという判別は、何の論理的な根拠もナイ。また同化だろうが、異化だろうが、スタニスラフスキーにおいても、ブレヒトにおいても、戯曲というものは「観客のシンパシーに支えられて在る」ものだということに対しては一致している。この一致は、両者の方法論如何を問わず存在するもので、かつ、劇作家の側からすると、ある鬱陶しさを強いる。
私はいままでに150曲以上の戯曲を書いてきたと思うが(120曲くらいから数えていないので)、「こんだけの出演者で」「こんだけの予算で」「こんな場所で」「こんな客を相手に」「これくらいの時間で」「〆切は何日で」「知られてはいませんが、わが町の有名人の誰々の偉業を」「誰もが主人公であるような」「こんなテーマで」「こんなあんなで」「あんなこんなで」「これを原作にして」「歌が多くて、ちょっとイイせりふを入れて」と、まあ、受注産業だから、食うために書いてきた。一週間もあれば一曲くらいは書ける。10日で二曲書いたこともあったナ。ただし、さまざまな注文に応えて、ひとつだけ守ってきたことがある。「観客のシンパシーというものだけは裏切ること」。それだけが、私の劇作家としての意地というやつだ。

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