続・恋愛的演劇論(実践編)・11
スタ・システムにおいては、「記憶」は「五感の記憶」と「感性的記憶」に分類されているが、ストラスバーグはこの「感性的記憶」を「五感の記憶」の中に包括してしまう。さらに「五感の記憶こそ、スタニスラフスキー・システムが、システムそのうえに築いた土台なのだ」((メソード演技)とまで強調している。しかし、何れにせよ、どちらも俳優に演技の衝動を呼び起こさせる心身の装置のようにみえる。私たちは「記憶」というときに、それを時間性としてとらえがちだが、微細にいうならば、それは「時間の空間的な記憶」とでもいったほうがイイ。しかし、システムの場合でも、メソッドの場合においても、ここから心的領域に入ることはナイ。「感性的記憶」もまた「回想」と同義に用いられている色合いが強い。つまり、ある時間におけるある空間の「記憶」だ。なぜ、そうなのか、それは「日常」を創出するには、それで充分だからだ。しかし、記憶が心的領域に入るには、固有の幻想領域に辿り着かねばならない。たとえば、メソッドでの課題に多いカップを持つという「五感の記憶」では、カップを持つ手の感触、いわゆる触覚に重点が置かれる。しかし、カップを持つ(触れる、握る)手は、触覚としてだけ在るのではナイ。私たちが何気なく喫茶店で持つコーヒーカップは容器に過ぎないが、それでもなお、触覚というよりも、手の「拡張」として認識されている。「持ち方」とでもいえば、うまくとまではいかなくても、なんとはなくワカッテもらえるだろう。そこではカップの持ち方、上げ下げが観念的に表出されている。もう少し深く詮索していけば、個人愛用のカップとなると、その記憶はより観念性をおびてくる。さらに、そのカップが恋人からのギフトであったり、故人の形見の品であったりした場合、カップから表出されるものは、単なる五感の記憶をすっ飛んでいく。つまりこの「記憶」はカップの記憶ではあるが、カップの記憶によって、それを手にする俳優の側も当然、変容を強いられるということを意味している。この場合スタ・システムはやや慎重だ。「感性的記憶」においてもだが、スタ・システムは基本的に演技をする演技者を「変容させるべく」働くように創られているため(もちろんストラスバーグの場合でもそうなのだろうが、ストラスバーグの場合は、「そうみえればイイ」というところで終わる)、ありとあらゆる手段が演技者(俳優)にベクトルを向ける。そこで、新劇業界ではいまなお使われているコトバでいうところの、ミザンセーヌ(Mise-en-scène 俳優個体の演技以外に対する演出、舞台装置、音響、照明、俳優の立ち位置、et cetera)は、この「感性的記憶」を呼び起こす手段として、用いられることになる。とはいえ、こいつはあまりアテには出来ないシロモノだ。その実例として、私と流山児祥の二人舞台の巡演の具体例を挙げて説明していく。なんしろ、実践編だかんな。
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