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2012年4月 1日 (日)

続・恋愛的演劇論(実践編)・8

「超課題」というスタ・システムの金科玉条を目にするたびに、どういうワケかヘーゲルの「絶対精神」を漠然と思い浮かべてしまう。観念論弁証法で辿り着くべき人間意識の頂点とでもいえばいいのだろうか。そういえば、アンチ・ヘーゲルだったニーチェを読むと、あの懐かしき私たちが小劇場での「お芝居」を憶い出すのは、偶然だろうか。『演出者と俳優』(未來社)は、スタニスラフスキーが、73歳にして、当時の演出家や俳優と語り合った記録だが、ここでは、「超超課題」まで出てくる。他に気になるコトバを拾ってみる。「われわれが明確な興味深い超課題をもち、その超課題にうまく到達する貫通行動をもつ、こういう戯曲においてわれわれは愛されるのです。(中略)これをすべてのものの根底におきなさい。諸君はこれから離れてはいけません。私は多くの仕事をしています、そして、これ以外にはないと考えています。つまり、超課題と貫通行動、これこそ芸術における主要なものです」「貫通行動はなにか、について語ることはできます。貫通行動において論理(logic)と一貫性がいかに大きな、驚くべき、魔術的な役割をもたらすかを諸君は知っているでしょう。論理と一貫性は必要な目的を達成させるものです。超課題とはなにかについて考えることも必要です。これはこのうえもなく大きな科学です」。ここではまるで法華経を読むかのような幻惑におそわれる。法華経の経典には法華経が如何にすばらしい経典であるかだけが、書かれてある。法華経のすごさが書かれた経典というのが法華経なのだ。とはいえ、低能の私にも少しはワカルようなヒントは提出されている。最初のコトバには「戯曲において」とある。これはヒントとして持っておこう。そのアトに俳優について「彼が自分のうちに役を感ぜず、役のうちに自分を感じないあいだは、俳優になにを要求しても無駄です」とある。ここでは、役と俳優とのあいだにおいての、超課題と貫通行動に触れているとみていいだろう。そこでヒントだが「なにを要求しても」の要求は、俳優に対して誰が要求をするのだろうか。むろん、演出家としか考えられない。そうすると、演出家は俳優をして、超課題へ向けて貫通行動をとるようにディレクトしていく役割を担う者ということになる。そのために必要なのが戯曲だ。しかし、ここには、優れた戯曲というのは超課題を持っている戯曲で、それはどんな戯曲かというと超課題を持っている優れた戯曲だという循環論だけが待っているとしかいいようがナイ。そもそも超課題という概念(category)が行方不明なのだから。一つの概念を求めるには、カントのやった哲学の方法のような手続きが必要で、さらにそれが、超超と梯子を昇っていくような事象であるのなら、ヘーゲル哲学のような手続きが今度は必要になってくる。しかもそれは「大きな科学」だとしたら、科学理論として提出されねばならない。それについてスタニスラフスキーは同書で「スタニスラフスキー・システムには心理技術が語られています」と述べている。翻訳にマチガイがナイのだとしたら、スタ・システムは、心理技術を以て、俳優を創造しようという試みだということになる。なるほど未完ではあるが、大著『俳優の仕事』では、一人の青年が俳優となっていく小説の形式をとりながらも、その技術として用いられているのは、概ね、人間の行為、行動の観察と分析と、そこから導かれた演技術だ。しかし、以前に書いたが、それは「成功例」でしかナイ。辛くあたれば何かサプリメントの広告に寄せられた感謝のお便りとレベルの差などナイのだ。つまり、スタ・システムによって立派な俳優になるためには、スタ・システムを理解して、活用出来るだけの頭脳と身体が必要であり、そのスタ・システムを理解して活用出来る俳優を養成するのがスタ・システムだという、ここでも循環論に悩まされる。とはいえ、かつて日本の新劇界を席巻し、いまなおその本家、亜流、支流、新解釈派がかまびすしいこのシステム(演技論)に、しばらく、伴走しても悪くはナイ。

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