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2012年3月24日 (土)

続・恋愛的演劇論(実践編)・1

能楽を例にとって演技を論理化していくのは、私が能楽に詳しいということではまったくナイ。ただ、端的にワカリヤスク説明しやすいという理由以外にはナイ。下手の横好きどころの話ではなく、ただ、舞台に立って衣裳を着け、役らしいものを演じて(演技してではナイ)いる若い(あるいはある程度の年齢の、あるいはもっと齢を過ぎた)人々のいわゆる「カラオケ演劇」は、勝手にやってもらってかまわないのだが、それを基にしては、演技については解説しづらいだけだ。何故、そうなのかということをひとことでいっておけば、それは、そうしている人々の演劇(演技)対する錯誤からきているし、その原因は、それらを教示、教授した者の責任による。ところで、演技者の多くに能楽のことを話し始めると、怪訝な顔をするので、能を観たことはナイんですかと訊ねたことがある。観たものは皆無だった。私も(能楽は)さほど観る機会には巡り合っていないが、まるでナイのでは話は前に進まない。そこで、どんな芝居を観ているのかと訊ねると、他の仲間、友人の劇団、あるいは出演する舞台といしうのが圧倒的に多かった。別役さんや唐さん、渡辺えりの芝居どころではナイ。野田秀樹の芝居すら観ていない者が殆どなのだ。1年間、演劇の専門スクールに通っていたという者を歩かせてみる。稽古場を右から左へ。歩けない。歩きはするが、ただ歩いているだけだ。立たせてみる。ただ立っているだけだ。ただ横断歩道に立ち、横断歩道を渡って来るようにするだけだ。私はもう殆ど舞台を観にいくことはナイが、それは、そういったことがストレスになるからだ。カラダが創られていないので(といっても訓練して創れといっているのではなく)、演技者が自分のカラダというものを知らずに舞台に立ち、また、舞台というものがどういうものかワカラズに舞台に立っているので、見苦しいだけで、それだけで、目を閉じる。すると、下手な戯曲が台本化されたせりふが耳に飛び込んで来る。ここでも、私はつんぼじゃねえんだからと、いいたいくらいに、演技者は大声を出しているだけだ。演技など観なくとも、立たせるか歩かせるかさせれば、その演技者の力量は察しがつくくらいはこの業界で暮らしているものだから、銭を出して、劇場まで足を運んで、ストレスで気分悪くさせられるなどというのはたまったものではナイ。「衣食住足りてやりだす習い事」という川柳がある。そういう輩のいる一方、「何もかも足りぬの逃げ場が習い事」という皮肉な川柳もある(この場合の「の」は名詞)。つまり行き場のナイ、この平衡系、線型な世間(マスコミや、御用達コメンテイターのコトバでいえば「閉塞した」になる)において、演劇の現場(ユニットやプロデュース、劇団)に行って芝居していると「ナニカしているような気になる」のだ。しかし、この「ナニカ」は否定的なことばかりではナイ。「ナニカ」そのものは平衡系でしかナイかも知れないが、かならず、コヒーレンスな情況が産まれる。個人がひとつのエネルギーとしての「量」を持っているとき、それを「ゆらぎ(~)」として書けば、「~」は、別の個人の「~」と干渉することがある。そういうコヒーレントを自覚するか否かで、自分たちのやっている運動の作用というものに気づくはずだ。つまり、運動量αは作用<α> として、ある「質」に転換される。本来が、エントロピー(熱量の第二法則)によって拡散(平衡)しかしなかったものが、「~」の干渉によって増幅し、それが、近隣に影響を与えてさらに増幅される。それらは、舞台上の個々なるものだけではなく、観客席の観客という偶然の「関係」へと伝播する。私たちはいまのところ、こういった表現の現象を信じるしかナイ。

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