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2012年3月31日 (土)

続・恋愛的演劇論(実践編)・7

東京在住の演劇関係者が、東京在住の観客に向けて、舞台を提供する。その演目がオリジナルだろうが、外国の有名作品だろうが、提供さる作品そのものは、その両者にとってひとつの「疎外」としてしか現されない。なぜなら、東京在住者は双方ともに殆どすべてといってイイほど地方出身者であり、それゆえに東京という環境からの表現に対して自身の加速度を以てしか抵抗出来ないからだ。すると、加速度を持ち得ない者は、東京という疎外でしか東京と関係・了解出来得ない。「おれはおまえに弱いんだ」という恋の告白のせりふは、あきらかに東京のコトバだ。つまり東京の「虚構」だ。そうすると演技者は、このせりふを対象化するのに、まず、東京の虚構というステップを踏まなくてはならない。ここでは感情の記憶もリラックスも無意味な作業でしかナイように思われる。演技者が戯曲を手にしてそれを台本化(舞台で演じるための作業)するとき、おそらく誰もがその役を「こういうふうに演じたい」「こういうふうにみせたい」と思うに違いない。従って、そういうふうに演じるには、そういうふうにみせるには、どうすればいいのかが、演技の課題となってくる。しかし、ごくふつうに行われている台本化(戯曲の理解)においては、まず、その「役がどう在るか」「どう観るか」から始まる。(注:台本化というのは、書かれた劇である戯曲を、演じられる劇に写像するときに、書かれているものを演じられるように置換する作業をいう。よって、まず台本が在るのではナイ。これを誤解して、次の台本の〆切予定は云々といってくる劇団があるが、私が書いているのは戯曲だ。映画の場合は脚本(scenario)という)。ふつうはそれを「役づくり」と称しているが、それがたとえ実在の人物の評伝を元にした戯曲であっても、実在の人物のことなどワカラナイ。だから、ハムレットや、ロミオ、オフェーリアや、ジュリエットは、どう在るもどう観るも、架空の存在なのだから、無鉄砲にいうなら、勝手に創るしかナイ。もっと無造作にいうなら、それらしく演じるしかナイ。まずロミオが醜男であるワケがナイ。ジュリエットが醜女であるワケがナイ。与えられた最低綱領はそれだけだ。最高綱領は、せりふの中にしかナイ。では「おれはおまえに弱いんだ」はどうする。テーマやシチュェーションやモチベーションがわからんじゃナイですか。はい、ごもっとも。では「古池や蛙飛び込む水の音」ではどうだ。これは俳句として書き言葉としてはこれ以上の情報はナイ。これを読むのにテーマやシチュエーションやモチベーションが必要か。「古池」をさも古い池のように読めばいいのか。そうなるとどんな読み方になる。蛙はカエルの気持ちになるのか。私は何も因縁をつけているのではナイ。私たちは、微分方程式で「部分から全体を組み立てる」「部分を観て全体を知る」という方法論(演技)を論じた。「おれはおまえに弱いんだ」は、れっきとした「部分」だ。この「部分」から東京という「全体」を組み立てるか知らなければならない。東京という「虚構」をだ。つまり「おれはおまえに弱いんだ」に、東京の「虚構」というステップが踏まれていなければ、正しいせりふは出てこない。もちろんそれは、東京在住の地方出身者の(形態・心象)の表出座標と、そのせりふが観客に向けて飛んでくる加速度(向きと速さ)を含むという表現に辿り着けなければならない。

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