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2012年3月30日 (金)

続・恋愛的演劇論(実践編)・6

私たちは「加速度」や「ゆらぎ」というコトバで表現の在り方を説いているが、唯物論者にいわせれば、ムンクやゴッホの絵に重力などは無いということになるだろう。また、私たちはそれを観念論的に扱っているのでもナイ。単純に心的領域の現象を運動脳によって知覚精神現象に置き換えたもの(演技)を、数学や物理学その他のコトバを借用して、その概念(カテゴリー)と考え方、方法論を用いているだけだ。それは、前回にも述べたごとくだ。その伝でいうと、表現=(表出+[加速度・ゆらぎ])を設定した場合、表現者の能動的な表現が、観客の受動的(或いは能動的)な表現(ゆらぎ)と干渉を起こして表現は加速度的に成立していくことになる。そう解釈して不都合はナイ。不都合がある場合は、表現者と観客のコヒーレンス(ゆらぎ(波)の干渉の度合い)が、干渉せずにコヒーレントな状態(加速度が増加する)にならないという場合にみられるということだ。これには、もちろん、表現者(演技者)と観客の双方の「関係」と「了解」の成り立ちに原因が求められる。
たとえば演技者はコトバ(せりふ)という表現を「表現それ自体」として用いているのではナイ。せりふという表現は「対象化」されたアト、表現される。例示すれば、「おれはおまえに弱いんだ」という恋する男の告白があったとする。キザなせりふだが、これは故人石原裕次郎の歌の歌詞だ(そんだで、しょうがナイ。私たちがこんなのを使ったら、相手の女性にゲハッと笑われるだろう)。「対象化」するというのは、これまた難しそうなコトバだが、舞台化とか映画化というふうに「化」ってのはよく使われている、あれと同じことだ。「対象」はその語のごとく、何でもイイ。目の前のコレと決めたら、それが対象だ。べつに物質だろうが、意識だろうが、かまわない。つまり「おれはおまえに弱いんだ」というせりふを、まず一度「対象」として観る。そのとき、コトバを発する演技者(主体というが)と対象のあいだにはナニが起こっているか。それが「関係」と「了解」だし、そこには「空間的関係・時間的関係」と「空間的了解・時間的了解」があり、それらを私たちは形態(形象)表出と心象表出として、空間性、時間性で現した。つまり「対象化」したのだ。簡単にいえば、演技者とせりふは別個のものでありながら、前述したように対応(関係)したものとして在り、それを演技者が表現するのだ。システムやメソッドで、「外的性格」とか「内的性格」というふうに称されているものは、およそこの類のもので、単純にベクトルの方向を変えているに過ぎない。さて、そこでこの「おれはおまえに弱いんだ」を石原裕次郎がせりふでいうとする。上手いとか下手とか評価出来るものではなく、もはやそれは石原裕次郎のコトバというしかナイ。しかし、ある演技者が同じせりふをいうとする。これは観客にどう伝わる(観客のゆらぎとどう干渉する)のだろうか。コトバを変えて、このせりふを観客に伝えるために、演技者はどう演技すればイイのだろうか。石原裕次郎のマネ、模倣でもやればイイのだろうか。あらゆる演技論、演技術、システム、メソッド、に対する私たちの要望、要請は、単純にこれだけのことに答えてもらいたい、それだけだ。

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