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2012年3月20日 (火)

任侠映画のパロディ

まず、パロディというコトバを定義しておく。辞書に書いてある通りだ。「有名な作品の特徴をたくみにまねながら、それを滑稽に、また風刺的・嘲笑的に作りかえたもの」。ところで、任侠映画のパロディは創れるのだろうか。DVDで借りた『現代任侠史』(石井輝男監督、橋本忍脚本、高倉健主演)は、いくら、かの石井輝男が監督で、かの橋本忍がホンを書いたものであっても、ひょっとすると、この奇才監督と有名脚本家は、任侠映画のパロディを創りたかったのではないかとも思えるのだが、ワルモノ暴力団がいて、政界の黒幕がいて、対立する暴力団があって、どちらにも、マトモな侠客がいて、そうして、カタギになった元ヤクザがいて(これ、健さんネ)、その男を好きになるジャーナリストの美女(これは梶芽衣子さんネ)がいて、ついに、健さんが殴り込みに行くことになって、梶さんが「いかないで~っっっ」と号泣して、という任侠映画の王道になるのだ。とはいえ、このスカスカの任侠映画をみても、ハナから何も彼もワカッテいても泣くのだ、あたしゃ。だって、泣くために観てんだから。だいたい、任侠映画というものそのものが、パロディなのだから、写像を写像出来ないように、パロディをパロディすることは不可能なのだ。たとえば、水戸黄門が、時間になったら印籠を取り出すところで、亀の子タワシを取り出しても、誰も笑わないのと同じことだ(もし、そういうコントが存在するのなら、そのコントの創作者は笑いの何であるかがワカッテイナイ)。印籠からハトが出ても同じことだ。「えっ、どういうこと」なんて声がするので、いっておくと、あの印籠が出て「ははぁーっ」とみなさんが平伏すということ自体がパロディなのだ。もし、任侠映画のバロディ(のようなもの)を創ろうとするならば、ゾンビものにするしか有り得ない。殴り込むところまでは一緒で、殴り込んだ組の連中がゾンビだったというふうにすれば、急転直下、話は変わる。というのも、ゾンビ映画というジャンルは本来、存在しないからだ。 どんなジャンルの映画にせよ、ゾンビを出せばゾンビ映画となる。ゾンビが出現するのに根拠も理由も必要はナイ。ただ、出ればイイ。そこがゾンビ映画のオモシロサなのだから。任侠映画は滑稽で、風刺的で、嘲笑的なのだ。その観点からいえば、『男はつらいよ・フーテンの寅さん』シリーズはれっきとした任侠映画だ。私は私自身が私のパロディだから、滑稽だということくらいは自覚している。曰く「劇作家なんてのは、みな、そういう類です」

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