無料ブログはココログ

« 自由主義とはなにか | トップページ | 続・恋愛的演劇論・8 »

2012年3月17日 (土)

続・恋愛的演劇論・7(一部改筆)

私たちはナニをどうしたか。まず、演技というものをカラダ(形象-形態表出)とココロ(心象表出)というものに分けた。分けてそれを直行する軸にとって、座標を求めた。この座標が演技というものを表すといってイイ。(カラダ・ココロ)という座標だ。その度合いを示そうとすれば単に(3・5)と記せばイイことになる。さらにこれを動点と考え、空間軸と時間軸という関数座標に微分した。つまり二次関数(曲線-動転の動きは一定でナイので)として微分(演技者の瞬間の速度を求める)し、導関数とし、さらに微分して、加速度をその演技の中に含めた。能楽師の演技を速度と加速度というカラダの運動に置き換えたのだ。これは運動能のやることだ。もちろん、演技は運動能の技術だが、それは知覚精神現象を知覚精神現象に移すのではなく、心的現象を知覚現象の運動に置換する技量をいう。ここが、古今東西わんさかいわれてきた、さまざまな演技論と十歩も百歩もチガウところだ。では、この演技論をもう一歩進める。「伝える」ことが「伝わる」のはどういう経路を通って成されるのかを考える。恋しいひとに自らの思いを伝える、それがそのひとに伝わる、それがどうしてなのか。だから「恋愛的演劇論」なのだ。ここで、五感というものを問題にするとき、私たちは、未だコトバという伝達方法を持たない、私たちホモ・サピエンスの原始の人類が、「伝わる」ということをどういうふうにして感覚したかに思いを馳せねばならない。触覚は直接的だが距離としては最も伝達において短い。味覚もそうだ。嗅覚はやや距離をおけるが、遠い距離を伝わるのは視覚と聴覚だ。この「観る」と「聴く」は、現在の演劇においても重要視される、というか、演劇はほぼこの二つの伝達の送信と受信によって成り立っている。このことから、知覚的に「伝える」「伝わる」というもののうち、視覚や聴覚は、幼児が触覚や口唇による味覚や嗅覚で事物や事象を感覚するよりも、発達してくる段階が遅いと考えられる。この遅延は、視覚や聴覚が、知的な作為的な営為によって獲得されてきたということを意味する。視覚も聴覚も、遠いところのものを「伝える」ことが出来る。この「伝わる距離」の発見は、原始人類にとって、コトバに近づく第一歩だと思える。考えてもみたまえ、私たちは恋しいひとに、最初から身を擦り寄せたりはしない。まず、遠くから恋は始まる。その恋心はやがて、恋しいひとに近づいていく。距離を縮めていく。
「書きコトバ」と「音声言語」のどちらが先に発生したか、どちらを先に原始人類は獲得したかについては諸説あるが、私は先の観点から、それらは殆ど時間差はナイが、「書きコトバ」のほうが先だったのではナイかと考えている。これは従来の言語発生学の所見とはまったく逆のことをいっている。コトバ(言語)が視覚と聴覚によって発生したというところに疑いはナイが、直立二足歩行以来、火の扱いを手に入れた人類が、固いものを柔らかくして食することが出来るようになり、次第に歯を退化させ、口腔を大きくもてるようになると、咽頭から口腔への振動による音を出せるようになる。しかし、それは単純な音でしかナイ。さて、同時に両手で道具が持てるようになった人類は、石と石を叩き合わせたり、木を摺り合わせたりして火を起こすのだが、聴覚はこの音を聴く。石と石を叩くと「音」が出る。木と石とではチガウ音が出る。いま、人類の一団が狩猟に出ることにしよう。やみくもに歩くのではなく、どの辺りに動物がいるか、高所に見張りが立つとする。このとき、動物の群れを発見した見張り役は、それを狩猟の一団に報せるために、石で、崖の壁面を叩くとする。獲物が前方になら一回、右方なら二回、左方なら三回。移動しているときは小刻みに、というふうに。それを聞いて狩猟の一団は自分たちの歩く方向を決める。さて、私がいいたいのはここからだ。

« 自由主義とはなにか | トップページ | 続・恋愛的演劇論・8 »

演劇」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/558792/54243287

この記事へのトラックバック一覧です: 続・恋愛的演劇論・7(一部改筆):

« 自由主義とはなにか | トップページ | 続・恋愛的演劇論・8 »