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2012年3月17日 (土)

続・恋愛的演劇論・8

「私がいいたい」だけなのだから、ここからは私の単なる思い込み、もしくはトンデモ学説になることは、当人の私がイチバンよく承知している。それを踏まえた上で述べるならば、獲物の所在(位置)を報せるのに、石を壁面に打ちつけるという「音」を出す行いは、壁面に痕跡を穿つことになる。それがたとえば○であったり-であったり・・・であったりするとしよう。そうすると、次の見張り役は、どういう場合に○であり、どういう場合に-であるのか、その痕跡を「音」と対応して観ることが出来る。と、ここまでならば、単に言語道具説と同だし、言語と対象は対応するという言語学派の説と同じだ。ともあれ、ナニカを伝えんとしたことにはチガイナイ。それが、狩猟という労働のために行われていようが、そうでなかろうが、一向にかまわない。ところで、これとどうようのことが、穴居する洞窟内においても行われることがあったとする。石を叩く、木を叩く、石を石に打ちつける、木を地面に打ちつける。このとき、そうすると「音」が出るということは、原始人類にとって、どういうふうに認識(意識)されたのか。音が音波だということは小学生でも知っている事実だが、原始人類たちは、音よりも、まずその音を出す「石」や「木」や「地面」を注目(意識)する。おそらく「音」を出す、それらのものを凝視したに違いない。ここで音を観る(視覚化する)という意識が生まれる。このとき、歯の退化によって、口腔は広がり、咽頭から音声を発するということはもう原始人類には可能になっていたはずだ。そこで、石の音に似せて「コン」という音を「オン」と出してみる。(これを難しくいうと、対他的なものから対自的なものへということになるのだが)。それまでは泣いたり叫んだり怒ったり喜んだりしたときに出ていた「自然音」が、石を叩く音と同じように出せることに気づいたろう。そうして、木を垂直に地面を打って出した音は、足という身体を使って「踏む」ということで、類似した音が出せると気づいたろう。手を叩けば、石や木を互いに叩く音とどうようの音が出る。しかし、まだコトバの獲得には遠い。彼らは音を獲得したのに過ぎないのだから。やがて、石を叩く者に対して、それに合わせて手を叩き、それを聞いたものが、足を踏むという、意識が目覚める。そうして、それにさらに付け加えて喉から「オンオン」という声を発する。この「オンオン」が悲しみのときのココロの意識を意識して表出した(難しくいうと外化した)ものであれば、(類的に悲しみに同化出来うる)その場で足を踏んでいたものは、踏んでいる足の動作で悲しみを表すという意識的な動作をこころみることになる。もし、そういうところまできたとしたら、ほんとうに悲しくナイときであっても、その身体動作は悲しみを表すものだという、普遍性を獲得することになる。これをダンスの初まりだとすると、個々それぞれに、その身体動作は同じでありながら、ある固有性を獲得することになる。つまり微妙にチガウか、激しくチガウか、その関数の座標(カラダ・ココロ)の表出を微分していった、速度、加速度における瞬間的な表現という領域に辿り着く。このとき、音声の「オンオン」も単なる「オンオン」だけではナイ、さまざまな表現を持つに至っていたに違いない。(これが、石で壁面を穿った痕跡と結びついたとき、初期の書き文字が生まれたことになる)。かくして、「伝える」「伝わる」の初期的な第一歩が始まる。これを『聴覚言語発生説』という。

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